ロシア出身で現在ハンブルク在住の作曲家ソフィア・グバイドゥーリナ。彼女は10月24日に80歳の誕生日を迎える(そうよ、私はさそり座の女)。この生誕80周年を祝う記念演奏会に行って来た。
会場は同様に旧ソ連に生まれ、ハンブルクに没した作曲家アルフレート・シュニトケの名前を冠した「アルフレート・シュニトケ・アカデミー・インターナショナル」である。コンサートホールではなく、セミナールームのようなスペース。聴衆の数は150人くらいか?こじんまりとした演奏会だったが会場はとても混み合っていた。
一昨年もハンブルクでグバイドゥーリナの個展が開かれたので聞きに行ったことがある。詳細は以下のエントリーを。
演奏会その14: グバイドゥーリナ作品展(その1) 2009年10月23日
演奏会その15: グバイドゥーリナ作品展(その2) 2009年10月24日
“Sofias Ritter”
Vladimir Tonkha (Violoncello) und Friedrich Lips (Bajan)
zum 80. Geburtstag von Sofia Gubaidulina
Programm
Johann Sebastian Bach (1685 – 1750) Suite G-Dur für Violoncello solo
Sofia Gubaidulina (*1931) De profundis (1978) für Bajan
Sofia Gubaidulina Präludien für Violoncello solo (1974)
***
Johannes Brahms (1833 – 1897) Drei Choralvorspiele op. 122
(Transkription für Violoncello und Bajan)
Sofia Gubaidulina In croce (1979) für Violoncello und Bajan.
事前の告知とは少し曲順が代わっていた。第1部がチェロとバヤンのそれぞれの独奏曲でまとめられ、休憩後の第2部で二重奏曲が演奏された。
まずはバッハの《無伴奏チェロソナタ第1番》。チェロのヴラディミール・トンハーはグバイドゥーリナの作品を何曲もレコーディングしているようだし、ヴァイオリン奏者のギドン・クレーメルと共演したこともあるようだが、こういったシンプルな作品だとピッチの不安定さが気になる。やっぱりごまかしが効かないから難しいよなあ。
しかし、グバイドゥーリナの作品の演奏は素晴らしかった。《10の前奏曲集》は弦楽器の奏法が各曲のタイトルになっている。
- Staccato – legato
- Legato – staccato
- Con sordino – senza sordino
- Ricochet
- Sul ponticello – ordinario – sul tasto
- Flagioletti
- Al taco – da punta d’arco
- Arco – pizzicato
- Pizzicato – arco
- Senza arco, senza pizzicato
面白かったのは、まず “Con sordino – senza sordino”。一つの持続音の中でミュートされた音色と生の音色がクロスフェードする。聴衆に遮られて演奏者が見えなかったのであるが、おそらくミュートした弦とミュートしていない弦があって、それらの弦で同じ音高の音を出しながら徐々に弾く弦を変えていったのではないかと推測する。
それから、arco → pizzicato による楽想を繰り返したあとでの最終曲 “arco ではなく、pizzicato でもなく”。どんな奏法なのだろう?と思ったら、ギターでいうレフトハンド奏法(左手の指で指板を強く叩いて音を出す)とか、右手で弦をかき鳴らすようなことをやっていた。
バヤンは、バンドネオンやアコーディオンと同じような構造の楽器である。どの楽器も構造をよく知っているわけではないのだが、バヤンは両手で旋律を奏でることができるようだ。バンドネオンは両手のボタンの組み合わせによって音を出しているし(ですよね?)、アコーディオンは基本的に右手が旋律で左手が和音を操作するものだと理解している(ですよね?)ので、バヤンのように明確に2つの旋律線が対位的に演奏されるのは、なかなか耳に新しい。
*****
グバイドゥーリナの作品はよく前衛的と言われる。確かに今回の演奏曲でも、バヤンではいわゆる「クラスター」がよく使われているし、音高が特定されずに単に高低をあらわす線が五線上をうごめいていたり、拍節にとらわれない「無拍子」の部分もあったりする。(ちなみに演奏会場のロビーで出版社が出展したので、休憩中に作品のスコアを確認することができた。)
しかし、こういった手法は西洋のメインストリームからは「逸脱」しているのだろうが、我々「非西洋」の視点から見るとそういった技法は新しいものではなく、むしろ過去に遡るような感覚としてとらえられる。
そういった技法は、《De Profundis(深き淵より)》、《In Croce(十字架で)》といった宗教的なニュアンスをもったタイトルの作品で使われると、非常に説得力のある表出力を獲得するのである。
どこに連れて行かれるかわからない数多の前衛曲とは違い、グバイドゥーリナの作品には音楽の重心というかクライマックスというか、があって、そこに向かうエネルギーとそこから離れる余韻を感じることができる。自分がグバイドゥーリナの作品を気に入っている理由がもう少しわかったような気がした演奏会であった。