演奏会」カテゴリーアーカイブ

デュッセルドルフ日記その1

今日は会社をお休み。

まず午前中は息子の授業参観のために日本人学校へ出かける。

前回見たのは算数だけだったが、今日は算数とドイツ語の授業を見学。というか、見学ではお父さんも参加させられていて、ドイツ語の歌を、しかもカノンで歌わされたり、児童たちのゲームに混じったりした。妻から「ドイツ語の授業は参加させられる」という話を聞いていたので(見学する父兄が減ったのはそのせい?)回答できなかったりすると親の沽券に関わるなあ、と思ってあせっていたのだが、まあ無事に切り抜けられた。

その後いったん帰宅し、午後2時に授業が終わる息子を迎えに行って、大急ぎでデュッセルドルフ行きの電車に乗る。今日のメインイベントのためにデュッセルドルフに移動するのである。

今日のメインイベントは、KUNSTSAMMLUNG NORDRHEIN-WESTFALEN K20 GRABBEPLATZ というデュッセルドルフの美術館で行われる「3-D CONCERTS 1 2 3 4 5 6 7 8」というクラフトワークのコンサートである。2011 年のミュンヘンから始まった 3D コンサート、2012 年のニューヨークから始まった8日間で8枚のオリジナルアルバムを再現する、という趣向をクラフトワークのお膝元であるデュッセルドルフで行う。私が行ったのは初日となる「アウトバーン」のコンサートである。

(当初はアウトバーンに乗って「アウトバーン」を聞きに行く、ということを考えていたのだが、さすがに車で行くとしんどいし、渋滞などがあって間に合わないリスクもあるので電車で行くことにした。)

コンサートは午後8時から。午後6時30分にデュッセルドルフに到着してすぐに妻や息子と別れて(ハンブルクではなかなか食べられないラーメンを食べに行ったらしい)会場へ向かう。

さてコンサート。「オリジナルアルバムを再現する」と聞いた時に「40分程度で終わったら嫌だな」と思っていたのだが、出がけにホームページを確認したら他の作品も演奏することがわかったのでちょっと安心。上にも書いたが、会場は美術館のオープンスペースのような場所でもちろんオールスタンディング。年齢層はかなり幅広い。10歳くらいの子供を連れて来ている人もいたようだ。

セットリストはこんな感じ。順番は多少間違っているかも。

  • Die Roboter (The Mix バージョン)
  • Autobahn
  • Kometenmelodie 1
  • Kometenmelodie 2
  • Mitternacht
  • Morgenspaziergang (ここまでがアルバム「アウトバーン」)
  • Radioaktivität (いわゆる “NO NUKES” バージョン。「日本でも 放射能 今すぐ やめろ」が歌われている)
  • Trans Europa Express
  • Die Mensch-Maschine
  • Spacelab
  • Das Modell
  • Neonlicht
  • Nummern – Computerwelt
  • Computerliebe
  • Planet of Visions
  • It’s More Fun to Compute
  • Tour de France (ええと、どのバージョンだろう?)
  • Vitamin
  • Musique Non-Stop

最初に《ロボット》、最後に《ミュージック・ノン・ストップ》が置かれた以外は、ほぼ年代順。ほぼ2時間、壮大なレトロスペクティブである。

クラフトワークのライブを生で見るのは初めてだったのだが大満足。ほとんど動きがないライブであるが、映し出される映像の中にちょっとした茶目っ気があったり《ミュージック・ノン・ストップ》でメンバーが一人ずつ退場していく時におじぎをして手を振ったりと、意外にエンターテインメント性に富んでいることを改めて認識した。

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上原ひろみ in ハンブルク

急きょ、ハンブルクで行われる上原ひろみのライブを見に行けることになったので行って来た。

場所はアルトナにある「FABRIK」というライブハウスである。もともと何かの工場だった建物にいろいろなテナントが入っている施設らしい。

というわけで、ステージはこんな配置。ステージにある2本の柱に邪魔されてドラムしか見えない。

さて、実は上原ひろみさんが弾くジャズをちゃんと聞くのは初めてである。矢野顕子さんとやったピアノデュオコンサートの CD があまりによかったので期待していた。

オープニングの《Move》という曲がニューアルバムのタイトルチューンらしい。変拍子だらけのフュージョン寄りのジャズという感じ。終演後に一緒に行ったメンバーで話が出たのだが、この曲はキャッチーでとてもかっこいい。

時々パット・メセニーを思わせる曲想があったり、プログラムの中ほどに置かれたソロコーナー(ちなみにかなり脱臼した《I Got Rhythm》(かな?)をやっていた)ではアッコちゃんを思わせたり。

最初に座った位置がほとんどドラムしか見えない場所だったので、やはりバランス的にドラムが大きく聞こえる。そのせいか、ちょっと一本調子に聞こえてしまうところがあったが、CD ではもっと繊細なアンサンブルが期待できるのだろう。というわけで、会場で売られていた CD を買った。(あとで調べたら、やはり日本盤は初回限定 DVD 付きでしたぜ > U 氏)

[rakute_item id=”guruguru2:10951512″]

アンコールの1曲目が終わって、客電がついて、お客さんが少しはけた状態からでも出てきてくれて、2曲目のアンコールをやってくれた。中央付近に空いた席があったので、そちらに移動して、やっと上原さんが演奏する姿を見ることができた。

ジャケット写真などで見る姿はかなり大人びて見える。ステージでの身のこなしは、いわゆる「浮遊系女子」っぽい。ピアノをハードタッチで弾いている時でも、かなり軽やかに見える。

生演奏を聴くのはすごく久しぶりのような気がするのだが、やっぱりいい音楽を生で聴くのはかなり大事なことなのではないか、とあらためて認識したしだいである。

演奏会その54: カルミナ・ブラーナ

ハンブルク日本人学校の児童が出演するということで聞きに行った。

JOHANNES BRAHMS (1833–1897)
SCHICKSALSLIED OP. 54
Für Orchester und Chor

FRÉDÉRIC CHOPIN (1810–1849)
1. KLAVIERKONZERT E-MOLL

KLARA MIN Klavier
CARL ORFF (1895–1982)
CARMINA BURANA
In der Fassung für Orchester, Solisten, großen gemischten Chor und Kinderchor

SHIHOKO HIGASHIDA Sopran
HENDRIK LÜCKE Tenor
KEI KONDO Bassbariton

HAMBURGER KAMMERPHILHARMONIE

KINDERCHOR DER JAPANISCHEN SCHULE HAMBURG E.V.
CHORENSEMBLE GOETHE HAMBURG
KANEMAKICHOR HAMBURG
PHILHARMONISCHER CHOR ESSEN
JOHANNES-BRAHMS-CHOR HAMBURG

KAZUO KANEMAKI Leitung

Sa. 23.06.2012 | 17:00 Uhr
Laeiszhalle Hamburg | Großer Saal

さすがに息子に全プログラムを強いることは無理そうだったので、児童合唱が出演する《カルミナ・ブラーナ》だけ聞こう(聞かせよう)と思い、少し遅めに家を出た。

ちなみに息子には予習として何回か聞かせていたのであるが、最後から4曲目の《今こそ愉悦の季節》が好きなのだそうだ。私はこの曲を聞くと《カルミナ・ブラーナ》の終わりまでの道筋がはっきり見えてくる。厳かなソプラノソロによる《とても、いとしいお方》、圧倒的なクライマックスである《アヴェ、この上なく姿美しい女》、そして再び冒頭に戻る《全世界の支配者なる運命の女神》、これらの並びが好きである。

演奏は概ね想定の範囲内。特に打楽器奏者はもうちょっと神経を使って欲しい。アインザッツが合わなかったりとか要らないところで消音しきれない音が残ったりとか、そういうところで曲の緊張感が途切れてしまう。

児童合唱とソプラノ、テノール独唱は第1部と第2部の間に入場してきた。これでいいのだろう。ご存知の方はご存知だと思うが、《カルミナ・ブラーナ》の児童合唱は全曲の半分を過ぎた第3部にしか登場しない。以前、浜松でこの曲の実演を聞いた時には児童合唱は最初から入場、しかも椅子がなくてずっと立ちっぱなしだったので、曲の途中で次々にしゃがみ込んでしまった … という痛々しい光景を目にしてしまったので …

最後の《全世界の支配者なる運命の女神》は奇跡的に(と言っていいのか?)なかなか推進力が同期しなかったオーケストラと合唱が一体になってかなりの高揚感があった。聴衆の反応もよくていい演奏会だったと思う。

演奏会その53: 《神々の黄昏》(ハンブルク歌劇場)

ついにハンブルク歌劇場の《ニーベルンクの指環》一挙上演も最終日、《神々の黄昏》を見に行ってきた。

上演時間こそ《ヴァルキューレ》よりも《ジークフリート》も長くて約4時間30分なのであるが、これらに比べてストーリーの展開が早い(というか《ヴァルキューレ》も《ジークフリート》もスタティック過ぎ)ので、見やすい。

(ええと、ネタばらししてもいいのかな …)

ちなみにハイライトは以下から見ることができる。

http://www.hamburgische-staatsoper.de/de/2_spielplan/videos.php#eng

少々イレギュラーなエンディングではあるが、まあそういう考え方もあるかな、という感じ。

まず説明しておくと、舞台は大きな2階建ての建物がドリフの回り舞台の上に載っているような形になっている。これが回転することによってジークフリートとブリュンヒルデの住居(個人的にはこじんまりとしたマンションの一室のように見える)や、ギービヒ家の屋敷や、神々が座して終末を待つヴァルハラの様子が見られるようになっている。

第1幕の第2場から第3場への転換、すなわちハーゲンの策略にはまってしまったジークフリートがブリュンヒルデを連れ去るために住居に戻るシーンでは、舞台の転換中に暗闇の中にたたずむ神々(まさに「神々の黄昏」)も見える。これは原作にない部分なのでかなりショッキングだった。

最終場面のいわゆる「ブリュンヒルデの自己犠牲」のシーン。原作では殺されたジークフリートを弔うために河畔(ギービヒ家はライン河畔にある)に薪を積み上げさせ、ブリュンヒルデ自身が愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込み、ギービヒ家が焼け落ちる(ここで神々の居城ヴァルハラも焼け落ちる)とともにライン河が氾濫して、最終的に指環はライン河に戻る … というストーリーになっている。

ギービヒ家が焼け落ちるところまでは同じだが(ちなみに《ヴァルキューレ》も《ジークフリート》も火が使われる場面では本当に舞台上で火が燃やされていた)、ブリュンヒルデは炎の中に飛び込まない。自分の手でラインの乙女たちに指環を返し、全てが無に返るのを待っている。そして最後に現れるのはジークフリートとブリュンヒルデが住んでいたところ(この演出ではマンションの一室のようなところ)であり、そこには死んだジークフリートがいる。ブリュンヒルデがジークフリートに触れようとしたところで倒れこみ、幕。

全然脈絡はないのだが、村上春樹さんの小説「ねじまき鳥クロニクル」で妻が失踪した主人公のところにかかってくる謎の電話のシーンとか、TBSテレビのドラマ「高校教師」のエンディングとかを思い出した。澄み切った喪失感とでも言うのだろうか。

*****

17時間にも及ぶ4部作を2週間で(まあ集中的に、と言っていいだろう)見ることができた。これだけの機会はこの先そうないだろう。(隠居の身になったらバイロイトでも行ってみたいと思っているのだが、それでも4部作を一気に見ることは不可能だろうし。)

「大満足」というわけではないが、歌手についても、オケについても、演出についても、そこそこの及第点というところで満足している。私の理解の深さもまだまだ足りないのだろうから。

この《神々の黄昏》の第2幕と第3幕の間の休憩すなわち4部作最後の休憩の時、ワーグナーのオペラ自体の大団円はもちろんのこと、4日に渡って付き合ってきたこのプロジェクトの最後を見届けることになるのだという感慨で、かなり感極まってしまった。そして、感極まりながら、ロビーで売られているプレッツェルと白ワインにありついていたのであった。(開演が午後4時、終演が午後9時30分過ぎなので、夕食のタイミングが取りづらい。)

ひとまず、20年来こつこつと斧を入れてきた巨木が倒れたという感じ。次に見るべきワーグナーのオペラは何なんだろう?

演奏会その51: 《ヴァルキューレ》(ハンブルク歌劇場)

さて、《ニーベルンクの指環》第1夜(第2作)の楽劇《ヴァルキューレ》である。3幕のオペラで Wikipedia によると総演奏時間は約3時間40分(第1幕60分、第2幕90分、第3幕70分)、そして各幕間には30分の休憩が入るので、トータルでは5時間近く歌劇場にいることになる。実際、この日は午後4時から始まり、最終的に歌劇場を出たのは午後9時過ぎであった。

前に上司である Ralf と話したことがあるのだが、(例えば《ラインの黄金》のように)全1幕で2時間30分ぶっ続けのオペラと、間に休憩をはさんだ5時間のオペラのどちらがいいかというのはかなり答えるのが難しい問いである。《ヴァルキューレ》は各幕ともほとんどの場面が1対1の対話なので、これをぶっ続けだとかなりしんどい気がする。

ところで、世の中には《指環》について書かれた本はたくさん出ているが、「いかにして《指環》を最初から最後まで聞き通すか(あるいは見通すか)」という点については、以下の本が非常に参考になった。

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この本には、(あくまでも最初から最後まで聞き通すという意味において)音楽的に冗長なので気を抜いてもいいところ、それから聞き逃してはいけないところが書かれている。

具体的には、《ヴァルキューレ》においては第2幕でのヴォータンの自分語りが長過ぎるとある。確かに今まで挫折したのはこのあたりが多いなあ、と今さらながらに思う。

幕間にこの本を読んで、次の幕で何が起こるかを頭の中に叩き込み、そして1時間ちょっとの間、舞台に集中する、ということを繰り返すと、(そりゃ長いことは確かに長いが)何とか「楽しめる」ことができたのではないかと思う。

第3幕などは、おそらくちゃんと見るのは初めてだったと思うのだが、ヴォータンとブリュンヒルデが別れるところ、すなわちブリュンヒルデが炎に取り囲まれ、いわゆる「まどろみの動機」が延々繰り返されるところは率直に感動してしまった。

全般的にブリュンヒルデにはパワフルな歌唱が要求され、それは一般的にはパワフルなキャラクターに通じるのだが、この第3幕のブリュンヒルデはかよわい。強さに加えて、そのかよわさを表出するということは難しいのではないのかと思ったしだい。

自宅に帰った後、最近お気に入りの、いわゆるヴァレンシア・リング、デザイン集団であるラ・フラ・デルス・バウスの演出による公演を見直してみたのであるが、やはり恰幅のいいブリュンヒルデ役がギラギラした甲冑の衣装に身を包みながらこの第3幕を演じるのは少々違和感がある。

ちなみにこの第3幕の舞台は廃墟の地下室。冒頭の《ヴァルキューレの騎行》で彼女たちは馬ではなく簡易的な2段ベッドに乗っているので、病院の地下なのかも知れない。

*****

座席は4階(日本式に言うところの5階)のバルコニー席。一番前だし、バルコニー自体は斜め前を向いている。高いところにあるため、ステージの奥の方が見えないのは仕方がないとは思ったが、音響的にはちょっときつかった。オーケストラが演奏しているピットを上からのぞきこむような配置なので、バランス的に歌手よりもオーケストラの方が大きく聞こえてしまう。

 

演奏会その50: 《ラインの黄金》(ハンブルク歌劇場)

久しぶりのハンブルク歌劇場。今回は2週間で一挙上演されるワーグナーの歌劇《ニーベルンクの指環》である。《指環》をまとめて見られる機会はそうないので、家族の理解を得て聞きに行かせてもらうことになった。

序夜として演奏される第1作《ラインの黄金》は実演/レコード/CD/レーザーディスク/DVD/ブルーレイで何度も見たり聞いたりしているのでいちばん馴染みのあるオペラである … というか、意を決して全編制覇を試みるとだいたい第2作《ヴァルキューレ》の途中で挫折して、また別の機会に最初から … ということが多いので《ラインの黄金》だけが視聴回数が多いのである。

(そういえば一昨年もウィーンまで行ってウィーン国立歌劇場の《ラインの黄金》を見たのだが、すっかりレビューを書く機会を失してしまっているなあ …)

かなり安い席を買ったのであるが、ステージ全体を見渡せるし、いちばん前なので自分の見やすい体勢で見ることができるし(普通に座ると目の前に手すりがきてしまうポジションなので少し疲れる)悪くない。

演出は … 奇をてらった部類に入るのかな?冒頭ではラインの乙女たちが巨大なベッドに寝ていて清掃人の格好をしたアルベリヒが何とかベッドに登って乙女たちをモノにしようとする、ヴォータンをはじめとする神々はちょっと羽振りがいい家族経営の中小企業のようないでたちで、強面の兄ちゃんたち(神々の居城ヴァルハラを作るファーゾルトとファーフナー)に恐喝されている、ローゲは怪しいマジシャンのようないでたち …

もともとそういう設定だと言えばそうなのだが、ほとんど全ての登場人物が身勝手で軽薄である。誰もがはたからみたら「突っ込みどころ満載」の主張を朗々と唱える。演出の意図なのかどうかはわからないが、そういった軽薄さが明確に浮き彫りになっていることが面白い。奇をてらったなりの必然性を感じられたので演出が独り歩きしている、という印象にはならなかった。

歌手もおしなべて及第点というところか。アルベリヒとエルダがいい感じだった。

ハンブルク・フィル(ハンブルク歌劇場の演奏も担当している)の音は久しぶりに聞いたが、かなり音がまろやかになっていて驚いた。ますますシモーネ・ヤングとのコンビが充実してきたということなのだろうか。

*****

期待以上に楽しめたので今後も楽しみなのであるが、《ヴァルキューレ》と《ジークフリート》はほとんど未開の地である。あらすじだけでもいいからもう少し頭に入れておかないと。

 

北海道教育大学スーパーウィンズ演奏会

(直前になってしまって申し訳ありません、師匠 …)

師匠の依頼(と魅力的な報酬(笑))により、以下の演奏会を案内させて下さい。

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21世紀吹奏楽のアーキテクトたち~田村文生とその周辺~

2011年11月20日(日)16:00開演 岩見沢市民会館『まなみーる』
2011年11月21日(月)19:00開演 札幌市教育文化会館

  • レスピーギ/田村文生:交響詩「ローマの噴水」
  • テレマン/山本裕之:グリーレン・シンフォニー(初演)
  • 田村文生:スノーホワイト
  • 田村文生:20世紀の墓~「千の風になって」によるパラフレーズ
  • リスト/田村文生:バッハの名による幻想曲とフーガ

演奏:北海道教育大学スーパーウィンズ
指揮:渡部謙一(北海道教育大学准教授)
ナヴィゲーター:田村文生(作曲家、神戸大学准教授)
お問い合わせ: superwinds@gmail.com

北海道教育大学スーパーウィンズ

全国的な国公立大学再編の中、北海道内に5キャンパスを擁する北海道教育大学は、それまで教員養成専門の大学としてその存在価値を発揮してきた過去から脱却し、もっとも小さなキャンパスであった岩見沢キャンパスに、他の4キャンパスの音楽・美術・体育の教員の大半を終結させ、これまでにないほどに専門性の高い新しい芸術・スポーツ課程をスタートさせた。この「スーパーウィンズ」は、新しい芸術課程の管打楽器を専攻している学生を中心とした合奏体である。週数時間の「授業」としてのリハーサルを積み重ね、価値の高い管楽合奏作品を学ぶことで、多様性の現代に生き抜いていくための、個性的で主張の強い創造性を養っている。

吹奏楽がここまで発展したにもかかわらず、時代の変遷や淘汰に耐える普遍的音楽美と完成度を兼ね備えた作品が世に出てくることは稀であることに対する忸怩たる思いからはじめたこの「21世紀レパートリープロデュースプロジェクト」もすでに10数年が経過し、田村文生、伊左治直、山本裕之等のこれからの現代音楽をリードするトップランナー達との共同作業は10作品を越えるまでになり、きわめて先進的ではあるがその価値がじわじわと認められるようになったことを、肌で感じられるようになったのでは、といえる。

ここで紹介するレパートリーは、これらの先鋭的なレパートリーのほか、今改めてその価値の再認識の必要がある「温故知新」的な作品も含まれている。そこには、決していたずらに表面的な効果を狙ったり、自らの技の未熟さを小手先で補おうとする作品は一切ない。骨太で高いレヴェルの基礎力に裏打ちされた作品のみが放つことの出来る「未来への扉を開く」道へと導いてくれる光に満ち溢れた作品ばかりである。真に価値ある作品は必ずしも「口に優しい」「耳あたりのいい」物ではないが、かみ締めるほどに、譜面から染み出てくるその「効能」は、演奏者の脳に直接刺激を与えるすばらしい効能を持っているものなのである。そんな手だれの仕事を、ぜひ、心を開き、真正面から受け止めていただきたい。

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当日はUSTREAMでの生中継も予定されているそうですので、お楽しみに。

私も《グリーレン・シンフォニー》や《20世紀の墓》は聞いたことがなかったので楽しみです。

 (11/16: 追記)

残念ながら、技術的な問題により USTREAM での生中継は中止になったそうです。

配信は後日行われる予定です。
(11/18追記)

一応 USTREAM へのリンクを張っておきます。

http://www.ustream.tv/channel/superwinds-huei

 

 

演奏会その49: Ryuichi Sakamoto Trio Tour 2011 (Hamburg)

というわけで、ハンブルクで開催された「Ryuichi Sakamoto Trio Tour 2011」を聞きに行った。
ハンブルクに住み始めてから、ピアノソロをロンドンに聞きに行ったり、Alta Noto とのコンサートをコペンハーゲンへ聞きに行ったりしたが、ハンブルクでのコンサートは初めてである。たまたまネットで見つけたのが発売直後だったようで、かなりいい席(最前列ど真ん中)をゲットすることができた。

   improvisation
    fukushima#01
    nostalgia
    aria for oppenheimer
    bibo no aozora
    seven samurai -end theme
    tango
    mizu no naka no bagatelle
    solitude
    sweet revenge
    merry christmas mr.lawrence
    the last emperor
    happy end
    m.a.y. in the backyard
    1919

    encore-1
    ichimei/harakiri – death of a samurai main theme

    encore-2
    parolibre

    encore-3
    aqua

正直、前半は「我慢大会」的なところもある。これは今回の演奏だけに限らないし前にも書いたことなのであるが、どうも個人的に煮過ぎたうどんのような rubato は受け付けない。ひたすら音楽が弛緩する方向に行ってしまう。まあ、これが意図したことなのであれば、それはそれで「あり」なのかも知れないが、ちょっとこのスタティックさはついていけない。

本編最後の5曲はよかった。前半のあまりにもスタティックな雰囲気と比べてコントラストをつけ過ぎ、という感もあるが、こういったビートの力強さもトリオの醍醐味だと思う。

《ラスト・エンペラー》は、かなり手垢がついた曲だと思うのだが、あらためて「いい曲だなあ」と思った。この曲だけではないが、オーディションで選ばれたというヴァイオリニストの旋律の弾き方が個人的にはとても合っている気がする。ピアノが醸し出す縦の動きに拮抗する横の動き、とでも言うのだろうか。

Twitter でもつぶやいたのだが《Happy End》の旋律にわずかに付加された装飾音(というかメリスマというか)に心かきむしられる思いがする。西洋的なものとも違う、日本的なものとも違う節回しに、時代を超えた、遠い昔からの哀しみを見るような気がするのである。

《1919》。この曲も接続部のミニマルな部分(というか、曲全体がミニマルですが)にちょっと仕掛けが加えられている。4/4 で演奏されている拍子から8分音符が一つずつ抜け落ちていって、それがまた一つずつ元に戻っていく、ということになっている。こんな感じ。
4/4(=8/8) * 4小節 → 7/8 * 4小節 → 3/4(=6/8) * 4小節 → 5/8 * 4小節 → 2/4(=8/4) * 4小節 →
5/8 * 4小節 → 3/4(=6/8) * 4小節 → 7/8 * 4小節 → 4/4(=8/8) * 4小節

アンコール1曲目は映画「一命」のメインタイトル。この曲を東京のスタジオでリハーサルしている時に東日本大震災に遭遇したというMCがあり、その後「原発を全て廃止するというドイツの判断を賞賛 (admire) する」というコメントもあった。

上にも少し書いたが、《Happy End》の雰囲気しかり、《Fukushima #01》という曲しかり、この《一命》を取り上げたことしかり、(「悲しみ」ではなく)「哀しみ」が色濃く反映されたコンサートだったように思える。少なくとも個人的にはそう捉えた。たとえば、以前のコンサートでは(MC によると)「重苦しい雰囲気を払しょくするために」《Put Your Hands Up》のような軽い雰囲気を持つ曲が選ばれたこともあったが、今回はそういうこともなかったし。

だとすれば、最後の2曲、トリオで演奏された《Parolibre》とピアノソロで演奏された《Aqua》は、そういった「哀しみ」を昇華する慈愛や祈りのようなものなのではないか、と思うのである。

*****

会場で「YELLOW MAGIC ORCHESTRA PHOTOGRAPHY BY MASAYOSHI SUKITA(英語版)」と、先日(といっても、もう5か月も前か …)発売されたベスト盤「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」が販売されていたので、つい買ってしまった。あわせて40ユーロ(それぞれ30ユーロ、15ユーロのところを5ユーロ割引)ということなので、日本で買うよりはかなり割安だった。

(あ、でも日本盤は紙ジャケット仕様だったか …)

CDは「メンバー3人の合議による選曲の新編集ベスト盤」ということだが、個人的な経験から「合議」にすると、誰も推さず誰も否定しない中庸なものが選ばれてしまうのだなあ。

ベネルクス旅行記(その5)

最終日。昨夜からの体調不良は少しは良くなったかな?

チェックアウト時間ギリギリまでホテルで休み、それから中央駅のコインロッカーにスーツケースを預けてコンセルトヘボウに向かう。

コンセルトヘボウは、その名の通りロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地。ここでは毎週水曜日の12時30分から30分程度のランチタイムコンサートが催されている。もちろん無料。入場するために多くの人たちが雨の中で列を作っている。

場内はこんな感じ。

この日の夜にはイヴァン・フィッシャーの指揮によるラヴェルの《ボレロ》を含む演奏会が予定されていたので、ゲネプロ代わりに《ボレロ》を演奏してもらえるといいなあ、と思っていたのだが、予想通り(期待通り)ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》と《ボレロ》が演奏された。

やはりゲネプロ的な意味合いがあるのか、かなり大胆に曲に色をつけていたように思える。例えば《パヴァーヌ》。3回繰り返される主部はかなりすっきりした表情だったのだが、それらにはさまれる2つのエピソードは多少テンポを速めて主部とはかなり対照的に演奏されていた。それから《ボレロ》。それぞれのソロ奏者はかなりアーティキュレーションを強調していた。とはいえ、全体の盛り上がりは旋律ではなく伴奏が支配する感じ。特にティンパニはほとんどやりたい放題という感じであった。それでも暴走しないのがこのオケの特色なのか?

最近の評価ではウィーンフィルやベルリンフィルに勝るとも劣らない評価を受けているこのオケをぜひ実演で聞いてみたかった。まず、第一の印象はアンサンブルがしっかりしているということ。それぞれの奏者が自律していながら全体がうまく調和しているように聞こえる。だからどこかのパートが突出してしまうわけでもなく全体のバランスがとてもよい。あと、これはホールのせいなのかも知れないが、ドイツのオケ(例えばシュターツカペレ・ドレスデンやバンベルク交響楽団を例に挙げようか)に比べると音色がきらびやかに聞こえる。

個人的に体調が悪くなると涙腺が弱くなってしまうのだが(そういえば昔、医学部の先輩に「『病は気から』じゃない。『気は病から』だ。」と言われたことがある。)、《ボレロ》で初めて第1ヴァイオリンが旋律を弾き始めるところで、その美しさに涙してしまった。

 

演奏会その47: グバイドゥーリナ生誕80年記念演奏会

ロシア出身で現在ハンブルク在住の作曲家ソフィア・グバイドゥーリナ。彼女は10月24日に80歳の誕生日を迎える(そうよ、私はさそり座の女)。この生誕80周年を祝う記念演奏会に行って来た。

会場は同様に旧ソ連に生まれ、ハンブルクに没した作曲家アルフレート・シュニトケの名前を冠した「アルフレート・シュニトケ・アカデミー・インターナショナル」である。コンサートホールではなく、セミナールームのようなスペース。聴衆の数は150人くらいか?こじんまりとした演奏会だったが会場はとても混み合っていた。

一昨年もハンブルクでグバイドゥーリナの個展が開かれたので聞きに行ったことがある。詳細は以下のエントリーを。

演奏会その14: グバイドゥーリナ作品展(その1) 2009年10月23日
演奏会その15: グバイドゥーリナ作品展(その2) 2009年10月24日

30.09.2011, 20:00 Uhr Alfred Schnittke Academy International

“Sofias Ritter”

Vladimir Tonkha (Violoncello) und Friedrich Lips (Bajan)
zum 80. Geburtstag von Sofia Gubaidulina

Programm
Johann Sebastian Bach (1685 – 1750) Suite G-Dur für Violoncello solo
Sofia Gubaidulina (*1931) De profundis (1978) für Bajan
Sofia Gubaidulina Präludien für Violoncello solo (1974)
***
Johannes Brahms (1833 – 1897) Drei Choralvorspiele op. 122
(Transkription für Violoncello und Bajan)
Sofia Gubaidulina In croce (1979) für Violoncello und Bajan.

事前の告知とは少し曲順が代わっていた。第1部がチェロとバヤンのそれぞれの独奏曲でまとめられ、休憩後の第2部で二重奏曲が演奏された。

まずはバッハの《無伴奏チェロソナタ第1番》。チェロのヴラディミール・トンハーはグバイドゥーリナの作品を何曲もレコーディングしているようだし、ヴァイオリン奏者のギドン・クレーメルと共演したこともあるようだが、こういったシンプルな作品だとピッチの不安定さが気になる。やっぱりごまかしが効かないから難しいよなあ。

しかし、グバイドゥーリナの作品の演奏は素晴らしかった。《10の前奏曲集》は弦楽器の奏法が各曲のタイトルになっている。

  1. Staccato – legato
  2. Legato – staccato
  3. Con sordino – senza sordino
  4. Ricochet
  5. Sul ponticello – ordinario – sul tasto
  6. Flagioletti
  7. Al taco – da punta d’arco
  8. Arco – pizzicato
  9. Pizzicato – arco
  10. Senza arco, senza pizzicato

面白かったのは、まず “Con sordino – senza sordino”。一つの持続音の中でミュートされた音色と生の音色がクロスフェードする。聴衆に遮られて演奏者が見えなかったのであるが、おそらくミュートした弦とミュートしていない弦があって、それらの弦で同じ音高の音を出しながら徐々に弾く弦を変えていったのではないかと推測する。

それから、arco → pizzicato による楽想を繰り返したあとでの最終曲 “arco ではなく、pizzicato でもなく”。どんな奏法なのだろう?と思ったら、ギターでいうレフトハンド奏法(左手の指で指板を強く叩いて音を出す)とか、右手で弦をかき鳴らすようなことをやっていた。

バヤンは、バンドネオンやアコーディオンと同じような構造の楽器である。どの楽器も構造をよく知っているわけではないのだが、バヤンは両手で旋律を奏でることができるようだ。バンドネオンは両手のボタンの組み合わせによって音を出しているし(ですよね?)、アコーディオンは基本的に右手が旋律で左手が和音を操作するものだと理解している(ですよね?)ので、バヤンのように明確に2つの旋律線が対位的に演奏されるのは、なかなか耳に新しい。

*****

グバイドゥーリナの作品はよく前衛的と言われる。確かに今回の演奏曲でも、バヤンではいわゆる「クラスター」がよく使われているし、音高が特定されずに単に高低をあらわす線が五線上をうごめいていたり、拍節にとらわれない「無拍子」の部分もあったりする。(ちなみに演奏会場のロビーで出版社が出展したので、休憩中に作品のスコアを確認することができた。)

しかし、こういった手法は西洋のメインストリームからは「逸脱」しているのだろうが、我々「非西洋」の視点から見るとそういった技法は新しいものではなく、むしろ過去に遡るような感覚としてとらえられる。

そういった技法は、《De Profundis(深き淵より)》、《In Croce(十字架で)》といった宗教的なニュアンスをもったタイトルの作品で使われると、非常に説得力のある表出力を獲得するのである。

どこに連れて行かれるかわからない数多の前衛曲とは違い、グバイドゥーリナの作品には音楽の重心というかクライマックスというか、があって、そこに向かうエネルギーとそこから離れる余韻を感じることができる。自分がグバイドゥーリナの作品を気に入っている理由がもう少しわかったような気がした演奏会であった。