クラシック」カテゴリーアーカイブ

演奏会その50: 《ラインの黄金》(ハンブルク歌劇場)

久しぶりのハンブルク歌劇場。今回は2週間で一挙上演されるワーグナーの歌劇《ニーベルンクの指環》である。《指環》をまとめて見られる機会はそうないので、家族の理解を得て聞きに行かせてもらうことになった。

序夜として演奏される第1作《ラインの黄金》は実演/レコード/CD/レーザーディスク/DVD/ブルーレイで何度も見たり聞いたりしているのでいちばん馴染みのあるオペラである … というか、意を決して全編制覇を試みるとだいたい第2作《ヴァルキューレ》の途中で挫折して、また別の機会に最初から … ということが多いので《ラインの黄金》だけが視聴回数が多いのである。

(そういえば一昨年もウィーンまで行ってウィーン国立歌劇場の《ラインの黄金》を見たのだが、すっかりレビューを書く機会を失してしまっているなあ …)

かなり安い席を買ったのであるが、ステージ全体を見渡せるし、いちばん前なので自分の見やすい体勢で見ることができるし(普通に座ると目の前に手すりがきてしまうポジションなので少し疲れる)悪くない。

演出は … 奇をてらった部類に入るのかな?冒頭ではラインの乙女たちが巨大なベッドに寝ていて清掃人の格好をしたアルベリヒが何とかベッドに登って乙女たちをモノにしようとする、ヴォータンをはじめとする神々はちょっと羽振りがいい家族経営の中小企業のようないでたちで、強面の兄ちゃんたち(神々の居城ヴァルハラを作るファーゾルトとファーフナー)に恐喝されている、ローゲは怪しいマジシャンのようないでたち …

もともとそういう設定だと言えばそうなのだが、ほとんど全ての登場人物が身勝手で軽薄である。誰もがはたからみたら「突っ込みどころ満載」の主張を朗々と唱える。演出の意図なのかどうかはわからないが、そういった軽薄さが明確に浮き彫りになっていることが面白い。奇をてらったなりの必然性を感じられたので演出が独り歩きしている、という印象にはならなかった。

歌手もおしなべて及第点というところか。アルベリヒとエルダがいい感じだった。

ハンブルク・フィル(ハンブルク歌劇場の演奏も担当している)の音は久しぶりに聞いたが、かなり音がまろやかになっていて驚いた。ますますシモーネ・ヤングとのコンビが充実してきたということなのだろうか。

*****

期待以上に楽しめたので今後も楽しみなのであるが、《ヴァルキューレ》と《ジークフリート》はほとんど未開の地である。あらすじだけでもいいからもう少し頭に入れておかないと。

 

ヤナーチェク/歌劇《利口な女狐の物語》

「祝・ブルーレイプレーヤー新規購入」ということで。一枚だけ遅れて到着したヤナーチェクの歌劇《利口な女狐の物語》のBDである。

[tmkm-amazon]B001U1L9O4[/tmkm-amazon]

チェコで人気があった、新聞に連載されていた絵物語をオペラ化したものらしい。人間と動物(あるいは昆虫など)が登場する。当然、それらの間に言葉での会話はなく、人間は人間同士、動物は動物同士で話をする。しかし、その間には確かにコミュニケーションが存在しているのである。かみ合うようでかみ合わず、微妙に交錯する関係が面白い。

舞台美術は、さすがフランスという感じ。半ば擬人化された動物たちが色鮮やかなコスチュームをまとい、ひまわり畑の中でストーリーが展開する。

原作は第2幕の主人公の女狐ビストロウシュカと雄狐が結婚するところでハッピーエンド、なのだが、ヤナーチェクが言いたかったことは、書き足した第3幕にある輪廻というか生命の再生らしい。

結局、ビストロウシュカは行商人に悪さをして撃ち殺されてしまう。

ラストシーンでは冒頭と同じく、森番がひまわり畑の前に寝そべっているシーンが再現されるのであるが、冒頭で登場したビストロウシュカに代わって、ここでは死んだビストロウシュカと瓜二つの子ぎつねが登場して幕となる。こういうフラッシュバックは何とも言えないやるせない気持ちになる。

 

指環四部作

来年の3月に行われるハンブルク歌劇場の、いわゆるリング・ツィクルス—つまりワーグナーの楽劇《ニーベルンクの指環》一挙上演—を見に行くことにした。

2007/2008シーズンから年一作ずつ制作が進められていたこの4部作は、昨シーズンに《神々の黄昏》が初演され、その後に2回4部作の一挙上演が行われた。その時にチケットを取れなかったのですっかり諦めていたのだが、今シーズンも2回行われるようである。

1月末から2月にかけて行われる(今シーズン)第1回目の連続上演は毎週末の休日(つまり土曜日か日曜日)に行われる。さすがに家族との週末の夜が連続して失われるのは避けたかったので、これはやめた。第2回目は3月上旬に3/1(木)、3/4(日)、3/7(水)、3/11(日)と集中的に行われるし、リーズナブルなチケットも結構残っているのでこちらに行くことにした。

実はシモーネ・ヤングとハンブルク歌劇場のコンビの過去の演奏はすでにCDで出ていて、それらは Naxos Music Library でも聞くことができる。予習も兼ねて《ラインの黄金》から聞き始めている。

想像通り、かなりよい。拍手が入っているのでライブ収録のようだが、歌手とオーケストラのバランスもいいし、オーケストラの分離もクリアである。ヤングの持ち味である、重厚感と細かいところでのシャープさが共存して絵がなくても楽しめる。

… というか、音だけ聞いていた方が自分なりの情景を頭の中に思い描くことができていいのかな、と思ったしだい。自分が100%満足する演出はあり得ないだろうし、下手な演出はかえって全体的な印象を損ねることになりやしないか?という危惧もある。

というわけで、今回は舞台の見え方にあまりこだわらず(万が一寝てしまった時のリスクを低減するという意味もあるが …)なるべく安い席にしてみた。4公演トータルで100ユーロ以下。

*****

日本から取り寄せたブルーレイ/CDが到着。やはり20%くらいの関税を取られてしまう。

 

シューマン再び+サッカースクール

聞いた曲メモ。

最近なぜかわからないがシューマンの交響曲にはまっている。以前のエントリーではサヴァリッシュ/ドレスデン・シュターツカペレの演奏はピンとこなかったと書いたのだが、名盤と言われているのでちょっと聞いてみようかと思った。

ちなみにEMIはインターナショナル版のnaxos music libraryでは聞けるのであるが、日本版では聞けないようだ。

ううん、いいじゃないですか(笑)。1972年録音ということなので今から40年前。アゴーギクがわざとらしかったり、クライマックスの音色が荒くなったりと演奏様式が多少古臭い気もするが、これは個人的な好みによるものかも知れない。そもそも200年前に書かれた作品の演奏様式を今の尺度で考えても仕方がないし、古い録音の方が多少なりともシューマンの時代の演奏様式に近い可能性もあるのかな?とも思う。

まあ、いずれにせよ、ダウスゴーのような小さな編成のすっきりしたサウンドで大まかな構成を把握してからこの演奏を聴くと、大編成でありながら細部まで神経が行き届いていることがわかる。

またまた交響曲第1番《春》の第3楽章を例にとるが、ちょっとためたアウフタクト、すみずみまで意図が感じられる最初の主題のフレージングなど、それだけで感心してしまう。

*****

息子のサッカースクールのお母さん同士のメールで「ハンブルガーSVのサッカースクールが来年ハルステンベックに来るわよ!」みたいな情報が送られてきた。2012年7月23日〜27日の5日間、毎日9:30〜15:30までハンブルガーSVのトレーナーの指導でみっちり鍛えられるらしい。

現在のサッカースクールは週に一回2時間なので何とかやっていけているのだが、こんなに長期間に集中してやって大丈夫だろうか?とか、ドイツ語の説明を聞いたり初対面の子供たちとコミュニケーションできるのだろうか?とか、そもそも来年のその時期にドイツにいるのだろうか?とか、いろいろな不安がよぎるのだが、息子は純粋に「やってみたい」と言っていたので、やらせてみることにする。

同じサッカースクールの子供たちもかなり参加するようなので、彼らに助けてもらえればなと。

 

ベネルクス旅行記(その5)

最終日。昨夜からの体調不良は少しは良くなったかな?

チェックアウト時間ギリギリまでホテルで休み、それから中央駅のコインロッカーにスーツケースを預けてコンセルトヘボウに向かう。

コンセルトヘボウは、その名の通りロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地。ここでは毎週水曜日の12時30分から30分程度のランチタイムコンサートが催されている。もちろん無料。入場するために多くの人たちが雨の中で列を作っている。

場内はこんな感じ。

この日の夜にはイヴァン・フィッシャーの指揮によるラヴェルの《ボレロ》を含む演奏会が予定されていたので、ゲネプロ代わりに《ボレロ》を演奏してもらえるといいなあ、と思っていたのだが、予想通り(期待通り)ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》と《ボレロ》が演奏された。

やはりゲネプロ的な意味合いがあるのか、かなり大胆に曲に色をつけていたように思える。例えば《パヴァーヌ》。3回繰り返される主部はかなりすっきりした表情だったのだが、それらにはさまれる2つのエピソードは多少テンポを速めて主部とはかなり対照的に演奏されていた。それから《ボレロ》。それぞれのソロ奏者はかなりアーティキュレーションを強調していた。とはいえ、全体の盛り上がりは旋律ではなく伴奏が支配する感じ。特にティンパニはほとんどやりたい放題という感じであった。それでも暴走しないのがこのオケの特色なのか?

最近の評価ではウィーンフィルやベルリンフィルに勝るとも劣らない評価を受けているこのオケをぜひ実演で聞いてみたかった。まず、第一の印象はアンサンブルがしっかりしているということ。それぞれの奏者が自律していながら全体がうまく調和しているように聞こえる。だからどこかのパートが突出してしまうわけでもなく全体のバランスがとてもよい。あと、これはホールのせいなのかも知れないが、ドイツのオケ(例えばシュターツカペレ・ドレスデンやバンベルク交響楽団を例に挙げようか)に比べると音色がきらびやかに聞こえる。

個人的に体調が悪くなると涙腺が弱くなってしまうのだが(そういえば昔、医学部の先輩に「『病は気から』じゃない。『気は病から』だ。」と言われたことがある。)、《ボレロ》で初めて第1ヴァイオリンが旋律を弾き始めるところで、その美しさに涙してしまった。

 

演奏会その47: グバイドゥーリナ生誕80年記念演奏会

ロシア出身で現在ハンブルク在住の作曲家ソフィア・グバイドゥーリナ。彼女は10月24日に80歳の誕生日を迎える(そうよ、私はさそり座の女)。この生誕80周年を祝う記念演奏会に行って来た。

会場は同様に旧ソ連に生まれ、ハンブルクに没した作曲家アルフレート・シュニトケの名前を冠した「アルフレート・シュニトケ・アカデミー・インターナショナル」である。コンサートホールではなく、セミナールームのようなスペース。聴衆の数は150人くらいか?こじんまりとした演奏会だったが会場はとても混み合っていた。

一昨年もハンブルクでグバイドゥーリナの個展が開かれたので聞きに行ったことがある。詳細は以下のエントリーを。

演奏会その14: グバイドゥーリナ作品展(その1) 2009年10月23日
演奏会その15: グバイドゥーリナ作品展(その2) 2009年10月24日

30.09.2011, 20:00 Uhr Alfred Schnittke Academy International

“Sofias Ritter”

Vladimir Tonkha (Violoncello) und Friedrich Lips (Bajan)
zum 80. Geburtstag von Sofia Gubaidulina

Programm
Johann Sebastian Bach (1685 – 1750) Suite G-Dur für Violoncello solo
Sofia Gubaidulina (*1931) De profundis (1978) für Bajan
Sofia Gubaidulina Präludien für Violoncello solo (1974)
***
Johannes Brahms (1833 – 1897) Drei Choralvorspiele op. 122
(Transkription für Violoncello und Bajan)
Sofia Gubaidulina In croce (1979) für Violoncello und Bajan.

事前の告知とは少し曲順が代わっていた。第1部がチェロとバヤンのそれぞれの独奏曲でまとめられ、休憩後の第2部で二重奏曲が演奏された。

まずはバッハの《無伴奏チェロソナタ第1番》。チェロのヴラディミール・トンハーはグバイドゥーリナの作品を何曲もレコーディングしているようだし、ヴァイオリン奏者のギドン・クレーメルと共演したこともあるようだが、こういったシンプルな作品だとピッチの不安定さが気になる。やっぱりごまかしが効かないから難しいよなあ。

しかし、グバイドゥーリナの作品の演奏は素晴らしかった。《10の前奏曲集》は弦楽器の奏法が各曲のタイトルになっている。

  1. Staccato – legato
  2. Legato – staccato
  3. Con sordino – senza sordino
  4. Ricochet
  5. Sul ponticello – ordinario – sul tasto
  6. Flagioletti
  7. Al taco – da punta d’arco
  8. Arco – pizzicato
  9. Pizzicato – arco
  10. Senza arco, senza pizzicato

面白かったのは、まず “Con sordino – senza sordino”。一つの持続音の中でミュートされた音色と生の音色がクロスフェードする。聴衆に遮られて演奏者が見えなかったのであるが、おそらくミュートした弦とミュートしていない弦があって、それらの弦で同じ音高の音を出しながら徐々に弾く弦を変えていったのではないかと推測する。

それから、arco → pizzicato による楽想を繰り返したあとでの最終曲 “arco ではなく、pizzicato でもなく”。どんな奏法なのだろう?と思ったら、ギターでいうレフトハンド奏法(左手の指で指板を強く叩いて音を出す)とか、右手で弦をかき鳴らすようなことをやっていた。

バヤンは、バンドネオンやアコーディオンと同じような構造の楽器である。どの楽器も構造をよく知っているわけではないのだが、バヤンは両手で旋律を奏でることができるようだ。バンドネオンは両手のボタンの組み合わせによって音を出しているし(ですよね?)、アコーディオンは基本的に右手が旋律で左手が和音を操作するものだと理解している(ですよね?)ので、バヤンのように明確に2つの旋律線が対位的に演奏されるのは、なかなか耳に新しい。

*****

グバイドゥーリナの作品はよく前衛的と言われる。確かに今回の演奏曲でも、バヤンではいわゆる「クラスター」がよく使われているし、音高が特定されずに単に高低をあらわす線が五線上をうごめいていたり、拍節にとらわれない「無拍子」の部分もあったりする。(ちなみに演奏会場のロビーで出版社が出展したので、休憩中に作品のスコアを確認することができた。)

しかし、こういった手法は西洋のメインストリームからは「逸脱」しているのだろうが、我々「非西洋」の視点から見るとそういった技法は新しいものではなく、むしろ過去に遡るような感覚としてとらえられる。

そういった技法は、《De Profundis(深き淵より)》、《In Croce(十字架で)》といった宗教的なニュアンスをもったタイトルの作品で使われると、非常に説得力のある表出力を獲得するのである。

どこに連れて行かれるかわからない数多の前衛曲とは違い、グバイドゥーリナの作品には音楽の重心というかクライマックスというか、があって、そこに向かうエネルギーとそこから離れる余韻を感じることができる。自分がグバイドゥーリナの作品を気に入っている理由がもう少しわかったような気がした演奏会であった。

 

今日届いた本

日本から取り寄せた本が届きました。

モーツァルト全作品事典

というわけで、モーツァルト大全集を買ってちょぼちょぼ聞いているわけですが、今まで知っていた曲や気に入った曲ばかり聞いていて、なかなか消化が進みません。まあ、こういうカタログ的に全作品を俯瞰できるガイドがあれば少しは視野が広がるのかなと。

私はよく違いがわかっていないのですが「complete」ではなくて「compleat」であるのがミソなのだそうで、何を「全作品」として含めるかどうかをきちんと定義してから作業を進めたのだそうです。

で、いきなりぶち当たってしまった疑問。モーツァルトにはヴァイオリンと管弦楽のための《ロンド ハ長調 K.373》という作品があるのですが、これを移調してフルートのために編曲したK.Anh.184という作品もあります。どちらも例の「モーツァルト大全集」には収録されているのですが、後者はこの事典では全く触れられていません。定義を見ると「全作品」に収録されてもおかしくなさそうなのですが … 教えて、えらい人。

バッハ=魂のエヴァンゲリスト (講談社学術文庫)

クラシック関連の書籍を探していて見つけた一冊。確か磯山雅さんがバッハについて書いた本は講談社現代新書で読んでいたのですが、ドイツには持って来ていなかったし、モーツァルトやブラームスと同じようにバッハについてもある程度のパースペクティブを持っていたかったので読んでみることにしました。

鍵盤曲や声楽曲はほとんど知らないし、敷居も高いし …

バロック音楽名曲鑑賞事典 (講談社学術文庫)

こちらも、かつて購入したDHMの50枚組ボックスの消化がなかなか進まないのでカタログ的な知識が欲しかったのでした。

プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡

「なぜこの時期に?」という感はありますが、去年山口百恵作品に目覚めた私としては興味ある本です。山口百恵の楽曲のほとんど(全てではない)に立ち会った制作ディレクターによる回想(まさにプレイバックですね)です。上記のモーツァルトやバロック作品と同じように、こういう本を読むと山口百恵さんの諸アルバムを聞きたくなって、ひいては全録音作品(少なくともスタジオ録音作品)購入という事態になりはしないか恐れているところです(笑)。


ところで、私は自分自身「カタログフィリア(という言葉があるかどうかわかりませんが)」だと思っているのですが、息子が幼稚園の卒園記念文集の中で「好きな本」という項目で「レゴのカタログ」と書いていたことがわかり、軽くショックを受けるとともに遺伝とはかくなるものか(笑)と思いました。

他の子は「はれときどきぶた」とか「かいけつゾロリ」とか書いているのに … 息子も「かいけつゾロリ」がけっこう好きなのに …

シューベルト/MARIA/Perfume

今日届いたもの

シューベルト交響曲全集

ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団によるシューベルトの交響曲全集。

このコンビは以前実演を聞いた時にもかなり気に入りました。先日の演奏会でシューベルトの《未完成》を聞いて、もうちょっとちゃんと聞いてみたいと思い、最近リリースされたこの全集(とりあえず全部!)を買ってみようと思ったのです。

この全集はいままで4枚のSACDでリリースされていたシューベルトの交響曲全曲に加えて、現代の作曲家がシューベルトの作品を素材に作った作品を集めた2枚の作品集「ダイアログ」と「エピローグ」をまとめた6枚組です。

ベリオ、ヘンツェ、ツェンダー、リームなどの作品が収録されています。意外(といっては何ですが)と後世の作曲家に影響を与えているんですね。そういえばベルリオーズも《魔王》を管弦楽編曲していますし、ウェーベルンも《ドイツ舞曲》を編曲していたりします。(ウェーベルンの編曲は本人が指揮した音源がCD化されています。)

で、とりあえず《未完成》から聞いてみました。遅。冒頭の16分音符の刻みの細かいパルスが明確に聞こえます。ダイナミクスも(譜面通りなんだろうけど)かなり極端。

MARIA/朝比奈マリア

デビュー直後のYMOが「YMO名義」で参加した1979年リリースのアルバム。ちなみに「YMO」として参加したレコーディングはそんなに多くありません。近田春夫「天然の美」とかシーナ&ロケッツ「真空パック」とか。

このアルバムはソニーの「オーダーメイドファクトリー」での通販限定販売。

結成10周年、 メジャーデビュー5周年記念! Perfume LIVE @東京ドーム 「1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11」【初回限定盤】 [DVD]

年末に帰省した時に見たNHKでのドキュメンタリーが面白かったので。いつも「足の洗いどころ」を考えているのですが、やはり買っちゃいますねえ …


演奏会その45: 北ドイツ放送交響楽団特別コンサート

前のブログでもお知らせした北ドイツ放送交響楽団の日本救援チャリティコンサートへ行って来ました。

よくよくスケジュールを確認したら、この日は定期演奏会のマチネがあったので、おそらく午後1時くらいに終演、その後あらためて午後3時から同じ会場(ライスハレ)でチャリティコンサートが行われたわけです。

Konzert für Japan

Datum: 27.03.2011, 15:00 Uhr
Laeiszhalle

NDR Sinfonieorchester

Alan Gilbert, Dirigent
Lisa Batiashvili, Solo-Violine

Streichsextett:
Motomi Ishikawa, Violine
Sono Tokuda, Violine
Jan Larsen, Viola
Aline Saniter, Viola
Christopher Franzius, Violoncello
Yuri Christiansen, Violoncello

TORU TAKEMITSU Requiem für Streicher
JOHANNES BRAHMS Streichsextett Nr. 2  G-Dur op. 36
I: Allegro non troppo
GIYA KANCHELI V&V für Solo-Violine, Tonband und Streicher
FRANZ SCHUBERT Sinfonie Nr. 7 h-Moll D 759 “Unvollendete”

まず、武満徹の《弦楽のためのレクイエム》、日本人3名を含んだ弦楽六重奏によるブラームスの《弦楽六重奏曲第2番》の第1楽章、マチネでもソロを務めたヴァイオリンのリサ・バティアシュヴィリによるギヤ・カンチェリの《V&V》(ソロ・ヴァイオリン、テープ、弦楽のための)、そしてラストはシューベルトの交響曲第7番《未完成》というプログラムでした。

ちなみに《未完成》は第1楽章のロ短調から第2楽章のホ長調へ移調することを「未来への希望」としてとらえたい、ということからプログラムのメインになったようです。(余談ですが、指揮者のアラン・ギルバート本人の説明は英語で、それをドイツ語の通訳を介して聴衆に伝えられました。私的には英語でしゃべってもらって助かりましたが(笑)。)

昨日の反原発デモでも感じたし、今日のコンサートでも感じたのですが、参加者(演奏者と聴衆)に「日本を支援しなければ」という大きな、あるいは深刻な気負いはありません。しかし、そういう旗の下に集まることによって自分の意思を表明しているのだと思います。

まったくの余談ですが … この地において(「この地」というのがハンブルクを指すのか、ドイツを指すのか、ヨーロッパを指すのか、あるいは日本以外を指すのかはよくわかりませんが …)この「自分の意思を表明する」ということの大切さは、ふだんの仕事の中でも感じています。また、幼稚園でも「子供はこの地では自分を主張することの大切さを覚える。しかし、日本に帰った時にかの地で学んだ態度と、日本で必要とされる態度のギャップに悩む」とも聞かされました。

それはさておき、シューベルトの《未完成》をちゃんと聞いたのはおそらく初めてのような気がしますが、かなり面白かったです。最近、聞く音楽が古典派以前と現代音楽に二極化してきているので、こういう音楽も受け付けるようになって来たのかも。全般的には柔らかな流れを持った曲という印象があったのですが、この演奏はフレーズの節々が折り目正しくてちょっとイメージが変わりました。

以前から気になっていたノット/バンベルク響のペアによるシューベルトを聞いてみたくなりました … と自分で自分に言い訳(笑)。

さらにシェエラザード

すださんからゲルギエフが指揮した交響組曲《シェエラザード》を勧められたので、まずは手近なところで探してみることにした。そこで見つかったのが2005年にウィーンフィルを指揮したもの。ニコニコ動画にあった。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm12794236

http://www.nicovideo.jp/watch/sm12794369

まったく個人的な印象なのであるが、ウィーンフィルというのは指揮者を選ぶオケだと思う。私の数少ない実演とCDでの体験から思うに、指揮者がオケをコントロールできないと(オケが指揮者の言うことを聞かないと、と言い換えてもいい)おざなりな演奏しか期待できないように思うのである。もちろん、ウィーンフィルが醸し出す音色は他のオケには真似できない独特のものなので、おざなりでも「ああ、ウィーンフィルを聞いているんだ」という感慨に浸ることはできるのだが、どこか統制が取れていない、音が暴れているという印象を持つこともある。

そういった意味で、ゲルギエフはウィーンフィルに「言うことを聞かせられる」数少ない指揮者の一人なのだと思う。もちろん彼が指揮した演奏全てがそうであるとは限らないのだが、少なくともこの《シェエラザード》の演奏からは本気のウィーンフィルが聞ける。

(まあ、テンポが速めなので(特に第4楽章)いつになく必死に演奏しているからかもしれないが …)