月別アーカイブ: 2004年12月

東京佼成ウィンドオーケストラ第83回定期演奏会

最初は聞きに行こうかどうしようか迷っていたのだが、応募したチケットプレゼントに当選したので行くことにした。 プログラムは以下の通り。

第一部

  • フランシス・プーランク/フランス組曲
  • オリヴィエ・メシアン/異国の鳥たち
  • 武満徹/ガーデン・レイン
  • 武満徹/室内協奏曲

第二部

  • イーゴリ・ストラヴィンスキー/エボニー・コンチェルト
  • ドミトリ・ショスタコーヴィチ/ジャズ組曲第1番
  • クルト・ヴァイル/小さな三文音楽

アンコール

  • クルト・ヴァイル/小さな三文音楽より「マック・ザ・ナイフ」

よくよく考えると、かなり贅沢な演奏会である。 ほとんど編成の異なる20世紀に書かれた管楽アンサンブルの重要作品を一つの演奏会で聞けるのだから。

第一部はかなり多様な作品が集められたが、第二部はジャズ的な雰囲気を持った作品で統一されている。 第一部が演奏者にも聴衆にも緊張感を強いる作品が多かった(例えば《異国の鳥たち》の変拍子とか、《ガーデン・レイン》の金管楽器の超弱音の持続とか)が、その反面、第二部には演奏者も聴衆もリラックスできる作品が多かった。 そのせいか演奏会が進むにつれ演奏者がだんだんなごんでくるのがわかる。 《ジャズ組曲第1番》《小さな三文音楽》あたりでは、かなり乗った演奏が楽しめた。

演奏会前から「こんな特殊な編成ばかりの演奏会でアンコールに使える曲があるのだろうか?」と要らぬ心配をしていたのだが、《小さな三文音楽》の第2曲、ジャズのレパートリーとしてもよく知られている《マック・ザ・ナイフ》が再び取り上げられた。

佼成のメールマガジンによると、WOWOW のビデオ収録が入っていたらしい。放送されるのかな?

アンケートにも書いたが、また似たような企画で演奏会を開いてほしいものである。 (どんな作品があるかなあ ….. 武満徹の《シグナルズ・フロム・ヘヴン》を第一部と第二部の前に演奏して、クセナキスの《アクラタ》とか、ヴァイルの《ヴァイオリン協奏曲》とか(あれ、 佼成は最近やったっけ?)、ヒンデミットの《演奏会用音楽》あたりはギリギリでOKか?)

岩城宏之さんのサイン入りCDはしっかりゲットしました。

今日買ったもの(アバ)

アバ・オリジナル・アルバム・BOX

アバのオリジナル・アルバム8枚にボーナス・トラックを加えた紙ジャケボックスセット。 「収納ボックス」「帯」という紙ジャケ必須のアイテムが最初からついているのはいいのだが、ジャケットの出来はいまいち。一応、紙質はアルバムごとに変えられているのであるが。

最初に出会った洋楽がたぶんアバだったのではないかと思う。 小学校6年生か中学校1年生くらいのときだったと思うので、絶頂期のちょっとあとくらいからリアルタイムで聞いていたのだろう。 また、この頃ちょうど親からステレオを買ってもらい、本格的にFM放送のエアチェックを始めた頃であった。 なので、アバの主要曲はかなり知っているのではないかと思う。 《ダンシング・クイーン》《恋のウォータールー》《サンキュー・フォー・ザ・ミュージック》あたりはもちろん、《タイガー》とか《サマー・ナイト・シティ》とかも好きである。

一段落

今日は昨日よりは少し早く帰ることができて、吹奏楽団の知人たちと呑み会。

昨日の職場の忘年会に出られなかったうらみもあって最初から飛ばしまくる。さすがに二次会ではまともに思考できなくなってきたので先に失礼する。

なので、私が二次会で喋ったことは真に受けないで下さい。

… お願い …

*****

国立音楽大学ブラスオルケスターで長年指揮者を努められてきたクラリネット奏者の大橋幸夫さんが亡くなったらしい。同バンドが長年行ってきた邦人作品の紹介企画などは、もっとちゃんと成果をまとめて欲しいと思っているのだが。合掌。

一体感について

もう、仕事の土壇場。

一日中タコメーターが5000回転を指し続けているような感覚である。

今年からロンドンの開発拠点の人たちを仕事をしていて、基本的にはメールやテレビ会議でやり取りをしている。それに追加して今週はフェイス・トゥ・フェイスのミーティングもあった。特に最近は書くメールの8割くらいがイギリス人相手のものである。

当初はこうも考え方が違うものかと、半分呆れて半分怒っているようなことが多かった。いわゆる「あうんの呼吸」は全く通じない、指示していないこと はやらない、合意事項は正式に文書にすることを要求する(そりゃ、そっちは英語で読み書きするんだから問題ないんだろうけど、こっちは日本人が英語で読み 書きしているんだぜ)、こういうのを文化とか国民性の違いというのか、とあらためて思ったわけである。

最近せっぱ詰まってきたので、いきおいメールの数が増えていたのであるが、そうすると何となくコミュニケーションが取れてきて、お互いに相手に対する思いやりが文面ににじみ出てきたりするのである。

仕事に限らず、こういう「共通の目標に向かっているという一体感」というのは言葉や行動ではなく、まさに「実感」という形でしか感じることができないのではないかと思っている。

まだ仕事の方は全然決着ついていないのであるが、とりあえず今日は達成感を感じているのでちょっと今年を振り返ってみた(まだ早いって)。

楽譜が届いた

何か最近とっても忙しいぞ …..

とりあえず、選曲検討用と興味のために購入した楽譜が到着した。

マイケル・ドアティ/ビザロ

吹奏楽というよりは管楽アンサンブルといった方がよいような編成。 木管は3管(ただしクラリネットは Eb + Bb + Bb Bass が一本ずつ)+アルトサックス、金管は 4-4-3-1 + ユーフォニアム。それに打楽器、ピアノ、エレキベースという編成である。

実はあまり音源がなく、私が持っているのは《メトロポリス・シンフォニー》(終楽章は単独で吹奏楽編曲されている《レッド・ケープ・タンゴ》という作品)とカップリングになっている ARGO 盤だけである。

Daugherty: Metropolis Symphony/Bizarro

シンプルなリフがいろいろな楽器で繰り返されるという構成。 ジャズよりもロックに近い雰囲気である。 こういう作品こそ、大江戸ウィンドオーケストラあたりが演奏したら面白そうだ。

エリック・ウィテカー/スリープ

ヘリオトロープ・ウィンド・シンフォニーのCD に収録されている。最初に合唱曲として作られ、後に吹奏楽編成に改作されたらしい。吹奏楽版のフルスコアの真ん中には合唱譜も書かれているので、吹奏楽 + 合唱という形態での演奏も可能なのかも知れない。やはりいい曲であった。

最終部分での二度下降進行の音形には予想通り「Sle-ep」という言葉があてはめられていた。上記 CD の中山鉄也さんの解説によると作曲者のウィテカーは「スリープ = 永眠」という意味合いを持たせているという。この音形はマーラーの《大地の歌》(ここでは「E-wig(永遠に)」という歌詞がつけられている)や《交響曲第9番》でも死を暗示する音形として使われている。やはりウィテカーは意識しているのであろう。

エリック・ウィテカー/クラウドバースト

創価グロリア吹奏楽団のCD に収録されている。聴衆をも演奏者にしてしまうという面白いアイデアの作品である。聴衆がランダムに行う「指パッチン」が雨音を模倣しているのである。作品としては上記の《スリープ》よりちょっと大味か。

パーシー・グレインジャー/マルボロ侯爵のファンファーレ

《リンカンシャーの花束》の第1曲の途中で割り込んでくるファンファーレが、この《マルボロ侯爵のファンファーレ》である。イーストマン・ウィンド・アンサンブルの前指揮者であるドナルド・ハンスバーガー校訂によるエディション。

ホルンのオフ・ステージのソロに始まり、金管主体でどんどん繰り返されるような構成になっている。なかなか面白い小品なのだが演奏者によってはプレッシャーがきついかも。

クルト・ヴァイル/小さな三文音楽

オペラ《三文オペラ》から作曲者自身が再構成した管楽アンサンブルのための組曲。 この組曲を編むことを進言したのがオットー・クレンペラーというのが面白い。 個人的には厳格で気難しいそうな印象のあるクレンペラーがこの作品を振っている情景を想像すると何となくおかしい。クレンペラーによる音源もあるらしいのだが、残念ながらまだ聞いたことがない。

皇帝円舞曲(巨匠クレンペラーの世界)

編成は以下のようになっている。

2 fl (picc.), 2 cl, alto sax, ten. sax (sop. sax), 2 bn;
2 tpt, tbn, tuba; timp, perc, banjo, guitar (or harp), accordion, piano.

管楽アンサンブルの重要レパートリーということでとりあえず手元に置いておきたかったので購入した。

思いがけず、12月26日の東京佼成ウィンドオーケストラ定期演奏会のチケットが手に入った。岩城宏之さんがこの作品を振るというので楽しみである。

しかし楽譜の印刷が汚いなあ。インクがにじんで楽譜上の音符を判別できないところが何箇所かある。

マエストロ追悼

フレデリック・フェネルが亡くなったらしい。享年90歳。→ http://www.dws.org/ffennell.htm

そんなに先のことではないだろうと思っていたが、やはりその日が来てしまうとショックである。

詳細はあとで。ひとまずご冥福をお祈りしたい。

(12月10日追加)

フェネルの娘さんのメッセージが人づてに転送されてきました。ひとまずここに転載しておきます。とりあえず簡単な訳をつけておきますが、いかにもフェネルらしい最期だったように思い、ちょっとうれしくなりました。(誤訳があったのでちょっと直しました。)

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(原文)

I’ve managed to reach some of you by phone, others not, and I did not want to leave this as a voice message.

I want you, and the greater music community to know that my father died peacefully in his sleep early this morning, Tuesday, December 7, 2004.  Elizabeth and I were by his side.  I had promised him that I would do all I could to get him back to Siesta Key so he could watch the sun set over the ocean.  With the help of Hospice, he arrived home in time to see the brilliant orange and pinks in the western skies last evening.  A bit before Midnight, dad told me he was “frustrated and disappointed.”  When I asked him, “Why?” he
replied, “There’s no drummer here yet.  I can’t die without a drummer!”  I told him that I loved him, and that “Heaven’s best drummer was on the way.”  Moments later he said, “I hear him!  I hear him!  I’m OK now.” This was my final conversation with my dad.

I was blessed to be able to dress my father in his finest set of tails after he died, complete with the usual struggle with his tie.  Elizabeth asked if he could be “dressed up” and I could think of nothing finer for a lasting memory.  Dad asked to be cremated and that I scatter his ashes in the woods at Interlochen, Michigan this summer.  This, of course, I will do.

Elizabeth is OK at this point.  We are closely watching her, monitoring her blood sugar levels and seeing that she gets the diet and rest she needs after such a life transition.

There will be a small Memorial Service at a church in Siesta Key.  No date or time has been set yet.  As knowledge of my father’s death is communicated, please keep both Elizabeth and me in your prayers.

Fondly,
Cathy Fennell Martensen

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(訳)

皆さんに、私の父フレデリック・フェネルが2000年12月7日火曜日の朝、眠りの中で安らかに息を引き取ったことをお知らせします。エリザベス (訳注:フェネルの奥さん)と私は父のそばにいました。私は父に、父がシエスタ・キー(訳注:フェネルの自宅があるフロリダ州のビーチ。ちなみにこのCDのジャケット写真はシエスタ・キーのビーチらしい。)に戻って、海に沈む夕陽を見られるようにするためにどんなことでもすると約束しました。父は昨晩ホスピスの助けを借りて、西の空がオレンジやピンクに染まる時間に家に帰って来ました。真夜中ちょっと前、父は「がっかりした。」と言いました。「なぜ?」と私がたずねると、父は「まだ、鼓手が来ていない。鼓手がいなければ私は死ぬわけにはいかない。」私は父に「愛しているわ。」と言い、「天国でいちばんの鼓手がこちらに向かっているわ。」と言いました。しばらくしたあと、父はこう言いました。「聞こえる!聞こえる!これで大丈夫だ。」これが父との最後の会話になりました。

父の死後、私は父をもっとも上等な燕尾服で正装させました。いつものように苦労してネクタイを結んで。エリザベスは父を「ドレスアップ」することを望んでいました。私は思い出としてこれ以上素晴らしいことはないと思います。父は、火葬にして、灰をこの夏にミシガン州インターローケンの森に撒いてくれと言っていました。もちろん私はそうするつもりです。

エリザベスは今は大丈夫です。私たちは彼女の血糖値を見たり、彼女がダイエットしたりこのような人生の節目に必要な休息を取っていることを見守ったりしています。

シエスタ・キーの教会で小さな追悼集会を行う予定です。日時はまだ決まっていません。父の死を知らせる時には、私やエリザベスにも祈りを捧げて下さい。

Cathy Fennell Martensen
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西村朗作品集

最近は仕事しながら日本人作曲家のCDなどを聞いている。

西村朗:魂の内なる存在-西村朗協奏曲集[西村朗作品集 7]

ちょっと前に購入したのだけど日記に載せそびれたCD。 サクソフォン、二十絃箏、ピアノをそれぞれソリストにした協奏曲3曲が収録されている。サクソフォン協奏曲《魂の内なる存在》のソリストは須川展也さんである。

確か、このサクソフォン協奏曲は NHK 交響楽団での初演がテレビ放送されたので、それを録画してみたのだと思う。この時もソリストは須川さんだった。テレビで見た時は、かなり密度の高い音楽の 中でほとんど吹きっぱなしの須川さんを見て恐れ入ったのだが、今回はあまりそういう印象を持てなかった。なぜだろう?絵がなかったからなのか?オケがいま いちだからなのか?

ピアノ協奏曲《シャーマン》は西村作品にしては華々しい雰囲気を持った曲である。

しかし、西村作品はヘッドフォンで聞くより大音量で体感したほうがいいのかも。

ロックの学校

映画「ロックの学校」の DVD を借りてきて見る。

偶然、テレビで紹介されていたのを見て面白そうだと思った ….. のだが、劇場で見るまでもないと思って DVD 化を待っていた映画である。

天使にラブ・ソングを」 のロック版というか、先日放送された「笑ってコラえて」のアメリカ版とでも言おうか。(極悪「サウンド・オブ・ミュージック」という人もいた。いちばん的確かも。)臨時教師(ニセ)が小学生にロックを教えてコンテストに出てしまうというストーリーである。

設定自体は「絶対にあり得ない」と思うくらい突っ込みどころ満載なのだが(何もかもが中途半端な設定が逆にバランスが取れているのかも)、何も考えないで楽しめる映画だった。

一度でも「音楽をやっていて楽しかった」と思える瞬間があった人はきっと共感するところがあるのではないだろうか。最初はほとんど私利私欲のために小学生にロックを教え込んでいたジャック・ブラック扮するニセ教師であるが、結局は純粋な楽しみを知ってしまった小学生に逆に手玉に取られてしまうという図式が面白い。映画としても「音楽を通じてうんぬん」というお題目を訴えずに、ひたすら楽しげなバンド演奏を強調したのがよかったのではないか。よくありがちな内紛とか葛藤とか挫折とかがほとんどこの映画には見られないのである。

例によって音楽クラス(アメリカの場合はほとんど吹奏楽と言っていい)が「つまらないもの」のステレオタイプとして描かれているけどね。