そして、今日はお隣さんが出発する日。
いつもより早く日本と Skype をして、アルトナ駅へお見送りに行く。多くの場合、帰任される方のお見送りは空港なのだが、今回はヨーロッパ内の(いわゆる)横移動、しかもハンブルクで乗っている車を持って行かれるということなので、Autozug (車も一緒に運んでくれる寝台列車)でハンブルクを離れるということなのだそうだ。
代わる代わる写真を撮って、全体で記念写真を撮って、そして子供たちは発車する列車をどこまでも追いかけていく、という光景。
そこで考えたこと。これは個人的資質にもよるのかも知れないが、少なくとも私の場合。
誰か、あるいは何かの「存在」は、少しずつ我々の領域に入り込む。「不在」は少しばかりの時間をかけて「存在」に変化するのである。最初はぎこちなかったその存在も、いつの間にか日常に変わる。その逆に、「存在」は突然「不在」に転化する。昨日まで当たり前だったことが、今日は当たり前ではなくなるのである。
帰宅後、息子と外でサッカーをしたのであるが、いつも聞こえていたお隣りの子供たちの声、あるいは駐車場までの歩道を走り抜ける子供たちの姿に出会えないことを実感して、あらためて感傷的になってしまう。
ま、また会えるでしょう。