ドキュメント死刑囚

ドキュメント死刑囚 (ちくま新書 736)

選曲会議が終わって家に着いたのが午前0時過ぎ。よせばいいのにそれから読み始めて結局最後まで読んでしまった。

宮崎勤、小林薫、宅間守といった死刑囚との手紙のやり取り(前者2名とは直接、宅間とは間接的に)を通して、彼らが何を考えていたのかを探るノンフィクションである。彼らの精神崩壊の原因が共通して「家族の喪失」にあるというのが印象に残った。

宮崎勤は祖父、小林薫は母への愛をもって家族としてのシステムに参加していたが、彼らはその愛すべき人たちを失ってしまう。宮崎の場合、文中の説明によれば「(精神の)完全な崩壊という致命的事態を防ぐため」精神的なバリアが働いて現実感を失ってしまったのではないかということである。また、6人家族(祖父、父母、本人、2人の妹)であった宮崎の家ではもともと6人が一緒に食事を取れる卓袱台が使われていたのだが、6人が同時に食事を取ることがなくなったからということで改築時に4人がけのダイニングテーブルに変えたという。普通に考えれば何気ない事実なのだろうが、あとから考えると家族制度の崩壊を象徴する出来事として興味深い。小林薫は筆者が編集していた雑誌「創」の中で、「自分が親に望んでいたこと」として子供を持つ親に対して6つの提言をしている。その中にも「子供と一緒に食卓に着き団欒の一時を過ごして下さい」というのがある。

自著を出版するに当たって宮崎勤が「使って欲しい」と言っていた本人の写真が掲載されているのだが、小学校の低学年くらいだろうか、浮き輪を身につけ、プールか川のようなところで水遊びしている、あまりにも無邪気な笑顔に衝撃を受けてしまった。夏に読んだ平野啓一郎の「決壊」でも書かれていたのだが、無邪気な少年の心の闇が増殖し「向こう側」に行ってしまったのはいつなのだろうか。

今年の秋葉原での事件、「自分も一歩間違えば被害者になり得る」という意味での怖さを感じたことは言うまでもないが、加害者の経歴や人となりが明らかになっていくうちに同時に「自分も一歩間違っていたら加害者になり得た(あえて過去形で書こう)」と思ったことも事実である。彼らがそうなってしまって、我々がそうならなかった理由は簡単には見つからないのだろうか。

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