そういえば、OMEGA POINT からリリースされている「日本の電子音楽」シリーズがそろそろ入手しにくくなっているなあ、と思ったのでまとめて買っておくことにした。
- Vol.1 湯浅譲二/葵の上
- Vol.2 湯浅譲二・秋山邦晴/ひとみ座人形劇の音楽
- Vol.3 諸井誠・安部公房/音楽詩劇《赤い繭》
- Vol.4 湯浅譲二/舞踊劇のための音楽
- Vol.5 一柳慧/ミュージック・フォー・ティンゲリー
Vol.1 は発売当時購入していたので、今回は残りをまとめて購入しようと思ったのだが、Vol.2 だけは未だに入手できず。これだけが支持される理由があるのか知らん。
ということで、Vol.3 から聞いてみる。
《赤い繭》は安部公房の短編小説をもとに NHK のラジオドラマのために作られた音楽劇。公開演奏も想定して作曲していたということで、放送後にパントマイムも加えて再演されたらしい。帰る家(=休める 場所)を探している男が最終的に繭になり、やっと休める場所ができた、という、なかなか不条理なストーリー。
電子音だけでなく、室内楽やオンド・マルトノ、合唱もあわせて使われており、ナレーションによってストーリーが進んでいくので、聞いていてもなかなか面白い。
こういう時代(《赤い繭》は1960年作曲)の電子音楽は、今の耳で聞くと「不器用」あるいは「不便」に聞こえる。そういう不器用さや不便さの中に、逆に作曲者の野心のようなものがはっきり感じ取れるのである。
いわゆる「電子音楽」が電子楽器の急速な発達と相反するように廃れていってしまったのは、本来「音声合成器」であるはずのシンセサイザーが「楽器」としてあまりにも便利になり過ぎたからではないだろうか。
方法論における理論武装の有無はさておき、かつてアカデミックだった「電子音楽」の野心の後継者はエレクトロニカと呼ばれる分野の中にあるのではないかと思うのである。
今月の「レコード・コレクターズ」誌は、いよいよ80年代ロック・アルバム・ベスト100。60年代のビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」、70年代のセックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」は「なるほどね」という感じだったのだが、80年代は全く予想がつかなかった。
なんと、トーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」。 例えて言うなら、全く期待していなかった息子が運動会のかけっこで一等賞を取ったような気分である。 このアルバム冒頭の《ヒート・ゴーズ・オン(ボーン・アンダー・パンチズ) 》は私の iPod で最多プレイ回数を誇る。