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ビョーク/魔笛

1ヶ月ほど前に予約注文していたビョークのリミックスCD(シングル)が到着。

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発売後もしばらく送られて来なかったので、そろそろ問い合わせようかな、と思っていたところだった。

“Remix Series I” ということなので、続々と発売される。トータルでは8枚になる予定で、Matthew Harbert や Alva Noto もリミキサーとして名前が挙がっている。そして “I” を待っている間に “II” のプリオーダーも始まっている。実は送料がCD本体の2倍くらいかかっているので、何枚かまとめて買った方がお得なのではないか?ということに気付いた。でもなあ、特殊ジャケットの初回限定版が欲しいので、あまり傍観していると売り切れるリスクもあるんだよなあ …

予想通り、オリジナルの「Biophilia」の収録曲はスタティックなものが多かったので、リミックスでは少しリズムが強調されている。オリジナルに比べるととっつきやすい。

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せっかく買った「モーツァルトオペラ全集」のDVDを見てみることにした。選んだのは《魔笛》。

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実は、プラハで《ドン・ジョバンニ》の人形劇を見て来たので、ちょっと前に家族で本物を見直そうと思ったのだが、この全集に含まれている《ドン・ジョバンニ》は子供に見せるのが憚られるような演出なのであった …

で、《魔笛》。「のだめカンタービレ」で仕入れた程度には内容を知っている(笑)。以前 DVD ブックで買ったやつ(イヴァン・フィッシャー指揮のパリ国立歌劇場)にはあまりのめり込めなかったのだが、このザルツブルク音楽祭で上演されたムーティ/ウィーンフィルの舞台は面白かった。かなりカラフル(どぎついと言っていい)な舞台装置と、それぞれのキャラクターがわかりやすく個性化されているからかな?

とりあえずは DVD 一枚分の第1幕のみ。

 

LENNONYC

そういえば見るのを中断したままだったなあ、と思い再開することにした。

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どうでもいい話だが、パッケージの中にメディアはなく、テレビの下に積まれた別のDVDのパッケージの中にあった。このまま棚に片づけたりすると何年も見つからないという事態に陥ってしまうのだな(経験あり)。

原題は「LENNONYC」。タイトル通りジョン・レノンがニューヨークに移住した1971年8月から、そこで生涯を終えた1980年までを追いかけたドキュメンタリーである。私はジョンのドキュメンタリーというと映画「イマジン」くらいしか見たことがない(と思う)。《イマジン》という曲に代表される、平和主義者的な側面だけにスポットを当てることに違和感を感じているので、その手のドキュメンタリーは避けているのかも知れない。

この映画では、ジョンがニューヨークに渡ってから比較的ラディカルな政治活動に関わっていたりだとか、ヨーコさんと別居してロサンゼルスで奔放(というか自堕落というか)な生活を送っていたとか、上記の映画「イマジン」を補完するような形で見ることができる。というわけでかなりストライクゾーンが狭い映画のような気がするので、そのあたりに興味がなかったり、最低限の予備知識がなかったりすると楽しめないかも知れない。

構成は「イマジン」と同じような感じで、関係の深かった人たちの証言と当時の映像を織り交ぜて進行していく。ただ、本人やヨーコさんの証言は少なく、バックミュージシャンなどの証言の方が多いので迫力に欠ける。映像についてももうちょっと演奏しているものが多いとよかったのだが。

ジョンが死んだ夜、アパートの前で夜通し歌われていた《平和を我らに》が「うるさくて困った」というヨーコさんの告白には苦笑。また、ヨーコさんとプロデューサーのジャック・ダグラスがスタジオに閉じこもってセッションテープを聞き倒した、というエピソードもいい。

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そういや、ジョージ・ハリソンのやつも買ったんだった。見ないと。

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チェリビダッケをちょびっとだけ

そういうわけで、買ってしまったチェリビダッケをちょこちょこと聴いてみた。

まずはリムスキー=コルサコフの交響組曲《シェエラザード》。第1楽章は確かに遅めのテンポだが、たゆたうようなメロディの細かい音符を適切に聞かせるにはこのくらいのテンポが必然なのだろうという気がする。個人的には賛成。だが、第2楽章の冒頭のファゴット・ソロの遅さはかなり驚く。好意的に解釈すれば「いつ終わるとも知れない寝物語を極限まで引き延ばされた時間の中で表現する」みたいなことが言えるのだろうけど、これはちょっとついていけない。第4楽章も基本的な納得できる解釈である。無駄に高揚しないのがいい。

それからラヴェルの《ボレロ》。これもラヴェルは遅めのテンポを好んでいたらしいので、こういうテンポ感もありなのだろう。ちょっとリズムが重厚過ぎる気もするが。

全般的にはオケが指揮者のいうことを聞いて、細かいところまでお互いを聞き合っているなあ、という気がする。時々、勢い「だけ」の演奏や、バランスが悪かったりアインザッツが合っていない演奏を聴いてげんなりすることがあるのだが、これはその対局にあると言えるのではないだろうか。ライヴでこれだけの整然とした演奏をするだから、スタジオ録音にしたら息が詰まりそうな気がする。

あまり、チェリビダッケっぽくないところから手をつけてしまった気がするので、今度はドイツものでも聴いてみることにしますかね。

 

演奏会その53: 《神々の黄昏》(ハンブルク歌劇場)

ついにハンブルク歌劇場の《ニーベルンクの指環》一挙上演も最終日、《神々の黄昏》を見に行ってきた。

上演時間こそ《ヴァルキューレ》よりも《ジークフリート》も長くて約4時間30分なのであるが、これらに比べてストーリーの展開が早い(というか《ヴァルキューレ》も《ジークフリート》もスタティック過ぎ)ので、見やすい。

(ええと、ネタばらししてもいいのかな …)

ちなみにハイライトは以下から見ることができる。

http://www.hamburgische-staatsoper.de/de/2_spielplan/videos.php#eng

少々イレギュラーなエンディングではあるが、まあそういう考え方もあるかな、という感じ。

まず説明しておくと、舞台は大きな2階建ての建物がドリフの回り舞台の上に載っているような形になっている。これが回転することによってジークフリートとブリュンヒルデの住居(個人的にはこじんまりとしたマンションの一室のように見える)や、ギービヒ家の屋敷や、神々が座して終末を待つヴァルハラの様子が見られるようになっている。

第1幕の第2場から第3場への転換、すなわちハーゲンの策略にはまってしまったジークフリートがブリュンヒルデを連れ去るために住居に戻るシーンでは、舞台の転換中に暗闇の中にたたずむ神々(まさに「神々の黄昏」)も見える。これは原作にない部分なのでかなりショッキングだった。

最終場面のいわゆる「ブリュンヒルデの自己犠牲」のシーン。原作では殺されたジークフリートを弔うために河畔(ギービヒ家はライン河畔にある)に薪を積み上げさせ、ブリュンヒルデ自身が愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込み、ギービヒ家が焼け落ちる(ここで神々の居城ヴァルハラも焼け落ちる)とともにライン河が氾濫して、最終的に指環はライン河に戻る … というストーリーになっている。

ギービヒ家が焼け落ちるところまでは同じだが(ちなみに《ヴァルキューレ》も《ジークフリート》も火が使われる場面では本当に舞台上で火が燃やされていた)、ブリュンヒルデは炎の中に飛び込まない。自分の手でラインの乙女たちに指環を返し、全てが無に返るのを待っている。そして最後に現れるのはジークフリートとブリュンヒルデが住んでいたところ(この演出ではマンションの一室のようなところ)であり、そこには死んだジークフリートがいる。ブリュンヒルデがジークフリートに触れようとしたところで倒れこみ、幕。

全然脈絡はないのだが、村上春樹さんの小説「ねじまき鳥クロニクル」で妻が失踪した主人公のところにかかってくる謎の電話のシーンとか、TBSテレビのドラマ「高校教師」のエンディングとかを思い出した。澄み切った喪失感とでも言うのだろうか。

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17時間にも及ぶ4部作を2週間で(まあ集中的に、と言っていいだろう)見ることができた。これだけの機会はこの先そうないだろう。(隠居の身になったらバイロイトでも行ってみたいと思っているのだが、それでも4部作を一気に見ることは不可能だろうし。)

「大満足」というわけではないが、歌手についても、オケについても、演出についても、そこそこの及第点というところで満足している。私の理解の深さもまだまだ足りないのだろうから。

この《神々の黄昏》の第2幕と第3幕の間の休憩すなわち4部作最後の休憩の時、ワーグナーのオペラ自体の大団円はもちろんのこと、4日に渡って付き合ってきたこのプロジェクトの最後を見届けることになるのだという感慨で、かなり感極まってしまった。そして、感極まりながら、ロビーで売られているプレッツェルと白ワインにありついていたのであった。(開演が午後4時、終演が午後9時30分過ぎなので、夕食のタイミングが取りづらい。)

ひとまず、20年来こつこつと斧を入れてきた巨木が倒れたという感じ。次に見るべきワーグナーのオペラは何なんだろう?

演奏会その51: 《ヴァルキューレ》(ハンブルク歌劇場)

さて、《ニーベルンクの指環》第1夜(第2作)の楽劇《ヴァルキューレ》である。3幕のオペラで Wikipedia によると総演奏時間は約3時間40分(第1幕60分、第2幕90分、第3幕70分)、そして各幕間には30分の休憩が入るので、トータルでは5時間近く歌劇場にいることになる。実際、この日は午後4時から始まり、最終的に歌劇場を出たのは午後9時過ぎであった。

前に上司である Ralf と話したことがあるのだが、(例えば《ラインの黄金》のように)全1幕で2時間30分ぶっ続けのオペラと、間に休憩をはさんだ5時間のオペラのどちらがいいかというのはかなり答えるのが難しい問いである。《ヴァルキューレ》は各幕ともほとんどの場面が1対1の対話なので、これをぶっ続けだとかなりしんどい気がする。

ところで、世の中には《指環》について書かれた本はたくさん出ているが、「いかにして《指環》を最初から最後まで聞き通すか(あるいは見通すか)」という点については、以下の本が非常に参考になった。

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この本には、(あくまでも最初から最後まで聞き通すという意味において)音楽的に冗長なので気を抜いてもいいところ、それから聞き逃してはいけないところが書かれている。

具体的には、《ヴァルキューレ》においては第2幕でのヴォータンの自分語りが長過ぎるとある。確かに今まで挫折したのはこのあたりが多いなあ、と今さらながらに思う。

幕間にこの本を読んで、次の幕で何が起こるかを頭の中に叩き込み、そして1時間ちょっとの間、舞台に集中する、ということを繰り返すと、(そりゃ長いことは確かに長いが)何とか「楽しめる」ことができたのではないかと思う。

第3幕などは、おそらくちゃんと見るのは初めてだったと思うのだが、ヴォータンとブリュンヒルデが別れるところ、すなわちブリュンヒルデが炎に取り囲まれ、いわゆる「まどろみの動機」が延々繰り返されるところは率直に感動してしまった。

全般的にブリュンヒルデにはパワフルな歌唱が要求され、それは一般的にはパワフルなキャラクターに通じるのだが、この第3幕のブリュンヒルデはかよわい。強さに加えて、そのかよわさを表出するということは難しいのではないのかと思ったしだい。

自宅に帰った後、最近お気に入りの、いわゆるヴァレンシア・リング、デザイン集団であるラ・フラ・デルス・バウスの演出による公演を見直してみたのであるが、やはり恰幅のいいブリュンヒルデ役がギラギラした甲冑の衣装に身を包みながらこの第3幕を演じるのは少々違和感がある。

ちなみにこの第3幕の舞台は廃墟の地下室。冒頭の《ヴァルキューレの騎行》で彼女たちは馬ではなく簡易的な2段ベッドに乗っているので、病院の地下なのかも知れない。

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座席は4階(日本式に言うところの5階)のバルコニー席。一番前だし、バルコニー自体は斜め前を向いている。高いところにあるため、ステージの奥の方が見えないのは仕方がないとは思ったが、音響的にはちょっときつかった。オーケストラが演奏しているピットを上からのぞきこむような配置なので、バランス的に歌手よりもオーケストラの方が大きく聞こえてしまう。

 

演奏会その50: 《ラインの黄金》(ハンブルク歌劇場)

久しぶりのハンブルク歌劇場。今回は2週間で一挙上演されるワーグナーの歌劇《ニーベルンクの指環》である。《指環》をまとめて見られる機会はそうないので、家族の理解を得て聞きに行かせてもらうことになった。

序夜として演奏される第1作《ラインの黄金》は実演/レコード/CD/レーザーディスク/DVD/ブルーレイで何度も見たり聞いたりしているのでいちばん馴染みのあるオペラである … というか、意を決して全編制覇を試みるとだいたい第2作《ヴァルキューレ》の途中で挫折して、また別の機会に最初から … ということが多いので《ラインの黄金》だけが視聴回数が多いのである。

(そういえば一昨年もウィーンまで行ってウィーン国立歌劇場の《ラインの黄金》を見たのだが、すっかりレビューを書く機会を失してしまっているなあ …)

かなり安い席を買ったのであるが、ステージ全体を見渡せるし、いちばん前なので自分の見やすい体勢で見ることができるし(普通に座ると目の前に手すりがきてしまうポジションなので少し疲れる)悪くない。

演出は … 奇をてらった部類に入るのかな?冒頭ではラインの乙女たちが巨大なベッドに寝ていて清掃人の格好をしたアルベリヒが何とかベッドに登って乙女たちをモノにしようとする、ヴォータンをはじめとする神々はちょっと羽振りがいい家族経営の中小企業のようないでたちで、強面の兄ちゃんたち(神々の居城ヴァルハラを作るファーゾルトとファーフナー)に恐喝されている、ローゲは怪しいマジシャンのようないでたち …

もともとそういう設定だと言えばそうなのだが、ほとんど全ての登場人物が身勝手で軽薄である。誰もがはたからみたら「突っ込みどころ満載」の主張を朗々と唱える。演出の意図なのかどうかはわからないが、そういった軽薄さが明確に浮き彫りになっていることが面白い。奇をてらったなりの必然性を感じられたので演出が独り歩きしている、という印象にはならなかった。

歌手もおしなべて及第点というところか。アルベリヒとエルダがいい感じだった。

ハンブルク・フィル(ハンブルク歌劇場の演奏も担当している)の音は久しぶりに聞いたが、かなり音がまろやかになっていて驚いた。ますますシモーネ・ヤングとのコンビが充実してきたということなのだろうか。

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期待以上に楽しめたので今後も楽しみなのであるが、《ヴァルキューレ》と《ジークフリート》はほとんど未開の地である。あらすじだけでもいいからもう少し頭に入れておかないと。

 

ヤナーチェク/歌劇《利口な女狐の物語》

「祝・ブルーレイプレーヤー新規購入」ということで。一枚だけ遅れて到着したヤナーチェクの歌劇《利口な女狐の物語》のBDである。

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チェコで人気があった、新聞に連載されていた絵物語をオペラ化したものらしい。人間と動物(あるいは昆虫など)が登場する。当然、それらの間に言葉での会話はなく、人間は人間同士、動物は動物同士で話をする。しかし、その間には確かにコミュニケーションが存在しているのである。かみ合うようでかみ合わず、微妙に交錯する関係が面白い。

舞台美術は、さすがフランスという感じ。半ば擬人化された動物たちが色鮮やかなコスチュームをまとい、ひまわり畑の中でストーリーが展開する。

原作は第2幕の主人公の女狐ビストロウシュカと雄狐が結婚するところでハッピーエンド、なのだが、ヤナーチェクが言いたかったことは、書き足した第3幕にある輪廻というか生命の再生らしい。

結局、ビストロウシュカは行商人に悪さをして撃ち殺されてしまう。

ラストシーンでは冒頭と同じく、森番がひまわり畑の前に寝そべっているシーンが再現されるのであるが、冒頭で登場したビストロウシュカに代わって、ここでは死んだビストロウシュカと瓜二つの子ぎつねが登場して幕となる。こういうフラッシュバックは何とも言えないやるせない気持ちになる。

 

Perfume 再燃

一頃、全く Perfume への興味を失っていた息子であるが、最近またにわかに興味が再燃している。

最近、一緒に遊んでいる男の子が Perfume ファンだということがわかったのが原因らしい。彼とはレゴとかガンダムとか、何かと趣味が合うようだ。

iTunes から “Perfume” を検索し(まだ綴りを覚えられないので、最新アルバム「JPN」を見ながらアルファベットを打ち込んでいる)、好みの Perfume の曲を探し出すことを覚えた。

いつか、フェネスとか(「Black Sea」所収の “Perfume for Winter”)高橋幸宏とか(「La pensee」所収の “Perfume de l’aube”)を間違って再生してしまうことを密かに期待しているのだが、残念ながらまだそういう機会はない。

 

リトル・ウィリーズ/マイケル・ジャクソン

相変わらずNaxos Music Libraryを聞きあさったり、iTunesの整理がてら忘却のかなたにあった音楽を聴いたりしているので、CDを買うのは久しぶり。

フォー・ザ・グッド・タイムス

ノラ・ジョーンズもメンバーであるカントリー・バンドの2作目。ノラ・ジョーンズが好きな私としてはちょっと食指が動く。

ううん、微妙。カントリーをやるのは音楽がスタイリッシュ過ぎないか?一杯5000円の牛丼を食べて(食べたことないけど)「うまいんだけど、何かが違う。」という感覚。泥臭ければいいというわけではないのだが、小奇麗過ぎるように思える。録音も妙にクリアで妙にデッドだし。

あと、ノラ・ジョーンズのヴォーカルについて。私はノラ・ジョーンズがちょっと力を抜いて歌っているスタイルが好きなのだ、とあらためて認識した。「ザ・フォール」に収録されている《チェイシング・パイレーツ》とか、「フィールズ・ライク・ホーム」に収録され、東日本大震災チャリティアルバム「SONGS FOR JAPAN」にも収録された《サンライズ》とか。

このアルバムだとテンポの速い曲にそういった歌い方が感じられるのだが、スローな曲では(私の耳には)ちょっと歌いこみ過ぎに感じる。

車の中で聞いただけだし、もうちょっと聞きこめば印象は変わるのかも知れないけど。

MICHAEL

ま、今さらですが、amazon.deで5ユーロで売られていたので。マイケル・ヴァージョンの《BEHIND THE MASK》を聞けるのなら安いものかなと。

この曲は「スリラー」に収録される予定だったのだが、マイケル側が作曲のクレジットと印税の50%を要求したためにYMO側が収録を拒否した、という逸話がある。ま、後日教授は逆輸入っぽくこのマイケル・ヴァージョンをセルフカバーしていますが。

その教授バージョンのバーナード・ファウラー(「未来派野郎」にも参加)のヴォーカルはかなりテンションが高かったのだが、マイケル・ヴァージョンはもうちょっと自然に歌っている。これが意外といえば意外だった。

 

 

12/11の徒然

朝早く目が覚めたので、先日買った “TALKING HEADS / CHRONOLOGY” を見る。これも「家族で見る」という類いのDVDではないので。

一応、トーキング・ヘッズの活動はクロノロジカルには押さえているつもりである。断片的な映像が並んで飽きてしまわないかなあ?という不安もあったのだが楽しめた。想像以上に、キャリアを通してかなり演奏スタイルが変わるのが見られる。

最初に登場する映像はメジャーデビュー前の1975年。まだジェリー・ハリスンが加入してない3人での演奏である。まだ、「ちょっと新しいことをやっているアマチュア」という感がある。

だんだん演奏が洗練され、だんだんシャイなデヴィッド・バーンが大胆にパフォーマンスしていくようになるのがわかる。

やはり、圧巻は外部ミュージシャンを入れてよりパワフルになった「Remain in Light」期のライヴ映像。

これは大好きなアルバムだし、1980年代を代表する傑作アルバムの一つだと思っている。

ただ、このライヴを見ていて、このアルバムおよびそれに付随するライヴは、バンドとしてのトーキング・ヘッズの許容量を超えてしまっているのではないかと感じてしまった。ここに来て大事なのはデヴィッド・バーンの感性とそれをサポートするブライアン・イーノのプロデュースであって、残念ながらその他のメンバーの存在感が希薄なのである。

ライヴが高揚している一方で、バンドの瓦解はこのあたりから始まっていたのかなあ、と思うと複雑な気分である。

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妻がドイツ語講座のお料理教室(夕食会)があるということで午後からは息子と二人。

事前に約束していたように午後2時にガブリエルの家に遊びに行ったのだが、すぐにガブリエルとその友人を連れて帰ってきた。ちょっとサッカーをやったあと、「カーズ2」を見たいということだったので3人で見ていた。ちなみに言語は英語で字幕スーパーを日本語にした。

夕飯は妻が作ったカレー。